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スパイク・リー『アメリカン・ユートピア』

スパイク・リー『アメリカン・ユートピア』を観る。1975年に生まれた私はトーキング・ヘッズの音楽はどこか「とっつきにくい」ものとして通ってきたように思う。「あんなにポップな音楽を?」と思われるかもしれないが、私が青春真っ盛りだった頃は今のようにサブスクやYouTubeで手軽に音楽を聴けたりソースに当たれたりする時代ではなかったので、パンクやニューウェーブの音源を苦労して探るよりそれ以前のビートルズやそれ以後のグランジなりブリットポップなりを聴く方が楽しいという、極めて不健全な環境に置かれていたのである。隔世の感、というのはこういう時に使うべき言葉かもしれない。

ユートピアとは原義として「どこでもない場所」を意味する、と言ったのは誰だったか。この映画で元トーキング・ヘッズのフロントマンであるデヴィッド・バーンはその「どこでもない場所」であるユートピアをステージの上で再現してみせる。そこは実に華やかな場所だ。とはいえ下品なところはない。どぎつい色気もない。ケーブルレスの環境で縦横無尽に奏者やダンサーが舞い踊り演奏する、それだけといえばそれだけの様子が実に鮮やかに映し出されるのである。いわば無駄がない。それ故に曲のポップさや旨味が引き立つステージングとなっている。私自身惹き込まれてしまった。

またしても私の妄想をだだ漏れにするのだが、この時代にコロナが流行ったことを陰謀論的に読み解くなら、トランプ大統領時代から連なる「分断」をコロナが加速させたのではないか、と勘ぐりたくなる。このステージはマスクなしで行われている。もちろんコロナが流行る前だったからという理由なので私のように不謹慎な陰謀論的読みを施す理由はない。だが、ふと観客のひとりがヴァンパイア・ウィークエンドのロゴが入ったTシャツを着ているのを観て「ああ、世代を超えて音楽を愛するリスナーが集ったステージなのだな」と思ってしまった。そう思うとこのステージの煌めきが更に貴重なもののように感じられる。

ステージで踊り、また演奏するダンサーやミュージシャンたちは国境を超えた人選が行われている。アメリカやブラジル、世界各国から(の割にアジアからは選ばれていなかったようにも思うが)ギターやベースといったロック御用達の楽器に留まらずパーカッションやキーボードをステージで持ち運び、器用に奏でる人たちの姿に(安直かもしれないが)上述した世界を引き裂く「分断」、つまり国境の壁に人を閉じ込める風潮とは真逆の「国際交流」「グローバリゼーション」を見出すこともできるだろう。音楽自体民族音楽を消化しつつ白人的な洗練で固めた、流麗にして「誰もが楽しめる」類のものである。

「誰もが楽しめる」……いわばステージの上に「ハレ」「非日常」「祭り」を持ち込み、その上で「ケ」「日常」の穢れを払い清めるかのような一幕となっているように感じられる。音楽のテーマ/モチーフ自体も日常の祝祭性や人生の儚さ、そして政治的な怒りといったもので現世/浮世を直視しつつそこから希望を見出し、今を楽しく生きようという姿勢を感じるのだ。私はこの映画を観ていて黒澤明の『夢』の最終話を思い出した。あの映画のエンディングでもまた日常を突き抜けた祝祭性が描写されており、こちらの心を癒やすものとして成立していると思われたからだ。

いや、意地悪く言えばこれは所詮「インテリ」な「リベラル」の自慰ではないかとも言えるのである。この音楽を楽しめない人も居るわけだから。だが、ここまでユーモアを保ち洗練されたポップさを際立たせ、高いレベルでステージとして結実させているのを観ると「負けたな」とも思ってしまう。この映画を観て、私は久々に音楽の意義や交流し続けることの意義について考えさせられた。今の時代でも人々はZOOMやその他のツールで「分断」を越えて交流することはできなくもない。だが、それではこの豊穣なステージが示しているマジックを生み出せまい。そこが悩ましい。

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