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ジム・ジャームッシュ『ゴースト・ドッグ』

ジム・ジャームッシュ『ゴースト・ドッグ』を観る。いつもながら当たり前の話をするが、私たちは今まで生きている、ということは死んだことはないということだ。『ゴースト・ドッグ』を観ていて、人があっけなくバタバタ死んでいくのを観ながら「こういう人たちは、最後になにを思うんだろうなあ」と考えてしまい、その果にこんなスットコドッコイなことを考えたのだけれど、いつ銃殺されるかわからないアメリカの風土で(むろん、そんな極端な場所ばかりの国でもないわけだが)この映画のフォレスト・ウィテカーよろしく『葉隠』を読むとはどういう意味があるのか考えてしまった。結構身に沁みて読めるものなのかもしれない。

ゴースト・ドッグとは、先述したフォレスト・ウィテカーが演じる凄腕の一匹狼タイプのギャングの名である。彼はビルの屋上にたくさんの鳩と一緒に住んでいる。彼は毎年一回仕事量に応じて振り込まれる報酬と引き換えに、要人の暗殺という仕事をこなす。だが、そんなゴースト・ドッグはとある暗殺がきっかけでマフィアの娘をめぐるいざこざに巻き込まれてしまい、かつて彼を助けた恩人(故に、この恩人は殺せない)と敵対関係に陥ることになる。義理を選ぶか、それとも捨てるか……ゴースト・ドッグは彼を巻き込んだマフィアと血みどろの抗争劇を始めることになる。

ジム・ジャームッシュの映画をすべて観たわけではないので推測も混じる/交えるのだが、『葉隠』のみならず『羅生門』をも作中で重要な文献に加えるあたり、ジャームッシュの引用癖は細かいなと思わされる。これが単なるジャパニズムというか、珍奇な本を作中に出して気取ろうといったチンケな見栄からくるものではないことも面白い。『葉隠』はいついかなる時でもプロの仕事人であろうとするゴースト・ドッグの性格の造形に役立っている。『羅生門』や名前が出てくる「藪の中」はもしかしたらこの映画のレトロスペクティブな美学をあぶり出す昔話としてこの作品を支えているのかもしれない。

レトロスペクティブ、と書いた。この映画はどこか懐かしいのだ。ベティ・ブープやフェリックスといったアメリカのカトゥーンのキャラクターがブラウン管型のテレビに出てくるあたりが傍証となるだろう。それにゴースト・ドッグ(フォレスト・ウィテカーが演じているのだから、もちろん黒人である)と対立するマフィアの面々は皆老いた白人ばかりなのだ。老人会かよ、とツッコみたくなるような面々がゴースト・ドッグを追って階段をゼイゼイ言いながら上がる。このあたり、笑いを誘うオフビートさがたまらない。流石はジャームッシュだな、と思わせられる。

そこに、RZAによるヒップホップのサウンドが無機的に鳴り響く。これは私見/主観であることを断った上で書くのだけれど、普通ヒップホップと言えばもっとストリート的な、躍動感のある音楽として鳴るだろう。この映画でもブラックカルチャーはふんだんに盛り込まれていて、時にその躍動感が見えてこなくもない。しかしベースにあるのはやはりジャームッシュらしい脱臼した感覚なのだ。白人のマフィアのボスがヒップホップを口ずさみながら歯を磨く場面が印象的だ。ここまで「似合わない」というか「ミスマッチ」な場面もそうそう作れないだろう。これ、真面目すぎる観客は怒るんじゃないかなと心配になってしまった。

いや、気になるところはある。意図を伝えるからという意味はあるとしても日本の小説やヒップホップの持ち出し方がどこか「紋切り型」ではないかな、というところだ。黒人文化はもっと豊穣なはずなのにヒップホップオンリーかよ、というように。そのあたり、ジャームッシュの映画の「ペラさ」というか「フラットさ」が(いい意味であれ悪い意味であれ)透けて見える作りになっているように思う。「フラット」だから手軽に楽しめる。だが、その手軽さの根底にあるのは「色即是空」の美学を自家薬籠中の物にする知性なのだ。このあたりの知性的な「戯れ」がジャームッシュならではと言える。

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