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映画で”90sにタイムトリップ    ~後編~

”Naked Lunchi" (裸のランチ)

1992年 / 監督:デヴィッド・クローネンバーグ
ウィリアム・S・バロウズ原作の同名小説(1959年)を、監督のデヴィッド・クローネンバーグが再構築し、映画化したといわれる本作。
日本初公開当時、ウィリアム・バロウズの小説を”ヴィデオドローム”のクローネンバーグが映画にしたということで話題になっていたのだろう、女友達と週末のショッピングがてら観に出かけたが、、、
本編上映途中で友達が「ほんとごめん、、観れないかも。」と小声でささやき、中腰で出口に向かうのを追って、自分も途中退場したのを思い出す。
自分も「・・・?」という感じだったので、特に残念という思いもなかった。
あれから32年、アマゾンプライム(スターチャンネルEX「4Kリストア版」)で観ることができた。
1953年のニューヨーク、害虫駆除員として働くリー(ピーター・ウェラー)が見ている世界、映像がスクリーンに映し出される。
言葉を話す奇怪なクリーチャーたちも、姿こそグロテスクだったりするが、なぜだか気味が悪くない。それどころか、見逃すのが惜しいと感じるほどに凝視してしまう。。考えてみたら、それは当然だ。
デヴィット・クローネンバーグ監督が、その感性と才能と技術と情熱を注いで創った芸術作品なのだから。
物語に静かに流れるフリージャズと、言葉とリアルな音、夢(睡眠時にみる夢)のような(麻薬による幻覚なのだが)映像美が相まって、どっぷりとその世界観に浸れたことは、とても贅沢な時間だと感じた。
そしてまた、観たいと思った。

"The Postman (Il Postino)"   (イル・ポスティーノ)

1994年 /  監督:マイケル・ラドフォード
(ref : https://www.youtube.com/watch?v=SgbbmwHpoAA)
  1950年代、南イタリアの小さな島に、チリから追われた詩人のパブロ・ネルーダ(フィリップ・ノワレ)が滞在することになった。世界中から彼に届く手紙を配達するためだけに、島の青年マリオ(マッシモ・トロイージ)が臨時配達人として雇われ、二人の交流が始まる。
青年マリオが詩の世界に魅了されていく悦びを、その表情とパブロとの言葉のやり取りを通して一緒に味わっている気分にさせられる。
マリオのその感性の豊かさと奥深さ、斬新さにパブロも刺激され、喜びを感じたのだろう、魂の交流へとつながる。

マリオのその感性は、この物語の背景を貫く海に囲まれた島の自然、太陽、波の音、風、草木が彼の魂に生きていることを教えてくれる。

鑑賞時から30年経っても、自転車に乗って詩人の滞在する家に向かうマリオの姿、素朴で純粋な佇まいと、思索にふける真剣な眼差し、二人の心の交流をいつでも思い出すことができ、その度に、現在の自分の心を落ち着かせ、豊かにしてくれる。

"Reality Bites" (リアリティー・バイツ)

1994年 /  監督:ベン・スティラー
90年代半ば、大学を卒業したリレイナ (ウィノナ・ライダー)は、地元のTV局に就職するもクビになり、親友のビッキー(ジャニーン・ガラファロー)の住むアパートで、同じく職を失ったトロイ(イーサン・ホーク)とサム(スティーヴ・ザーン)との4人の共同生活が始まる。
自分のアイデンティティーをしっかりと持つリレイナとトロイは、敷かれたレールの上を歩こうとしていない。自分の価値観や感性を大切にするからこそぶつかる現実とのギャップに悩んでいるようにみえる。

アメリカではジェネレーションX、日本では団塊ジュニア世代と呼ばれた自分と同世代のリレイナたちの、当時の人生観や価値観、葛藤、空気感を感じる。
ウィノナ・ライダーとイーサン・ホークが、いい意味で自己中なところがリアルで、魅力的だ。その感じにLisa Loeb &Nine Stories ”STAY" や、The Knack "My Sharona"が溶け込む。

映画公開当時の94年、語学留学先のロンドン、ウェスト・エンドにあるPrince Charles Cinemaで鑑賞後、映画館の前で待ち合わせしていた友人を待っていると、偶然クラスメートのAstridとEva(共にオーストリア、グラーツ)と出くわした。「”Reality Bites” 観てきたとこだよ」と言ったらAstridが興奮した面持ちで「あの映画いいよね! 大好きすぎて3回も観た」と笑顔になったのが懐かしい。(Prince Charlsは当時、様々な分野の映画を2.5ポンド位<当時のレートで400円位>で観れたので、貧乏学生だった自分たちにはとても有り難かった。)

”THE REMAINS OF THE DAY” (日の名残り)  

1993年 / 監督:ジェームズ・アイボリー
カズオ・イシグロの同名小説(1989年)を映画化した本作。

1958年、英国オックスフォードシャー。長年、英国貴族であり政治や外交に重要な役割を果たしたダーリントン卿に仕えていた執事のスティーブンㇲ(アンソニー・ホプキンス)は、卿亡き後に屋敷を買い取った米国の富豪ルイスに仕えている。
主人ルイスから休暇を取ったらどうかと薦められ、車(ダイムラー)も使えと言われてスティーブンスがドライブで向かったのは、20年前にこの屋敷で女中頭をしていたミス・ケントン(エマ・トンプソン)の住む街であり、その道中で、彼女が働いていた頃の出来事が回想される。

第二次世界大戦前から勃発後、そして戦後と移り変わる中で、執事として生きるスティーブンスという人間の感情を、その厳しさと無表情さ、悲しみをたたえていると感じてしまう眼差しから想像するしかできない。
各国の要人たちがダーリントン・ホールでの重要なディナーの席に着席している画を観た時、ふと、これまでは、この時代背景の「このディナーテーブルに着席している面々」の物語を描いた映画は観てきたが、そのテーブルの周りで背を伸ばし、給仕している人間の物語は観たことがなかったと気がついた。
そして、スティーブンスという人間の内面的な純粋さが、テーブルに着座し、ソファーで葉巻をくゆらせ「名もなき人の意見」と市井の声を聴く必要性はないという”重要人物”たちとの対比で浮き彫りになる。

原作小説も素晴らしい。









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