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『ネガティブ・ケイパビリティ               答えの出ない事態に耐える力』

帚木蓬生著、朝日新聞出版 2017年

「どうにも答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力」あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味するという、ネガティブ・ケイパビリティ。
多くの受賞歴をもつ小説家であり、臨床四十数年以上の精神科医である著者が、「ネガティブ・ケイパビリティの概念を知っているのと知らないのとでは、人生の生きやすさが天と地ほどにも違ってきます。」と言い切る。
ここでは、「これまで正面切って論じられてこなかったこの秘められた力(ネガティブ・ケイパビリティ)」を、さまざまな角度から論じているこの本の内容を要約してお伝えします。
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・ポジティブ・ケイパビリティとネガティブ・ケイパビリティ
私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像する。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成される。
ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力である。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力である。

・キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」への旅
ネガティブ・ケイパビリティという言葉をこの世で初めて口にしたのは、ジョン・キーツ(イギリスの詩人<1795-1821>)である。
25年という短い生涯しか許されなかったキーツが、散文と韻文に能力を発揮したのはほとんど奇跡としか言いようがなく、この奇跡を成し遂げられたのは、キーツが早い時期に、ネガティブ・ケイパビリティの概念を掴んでいたからだと考える。
経済的な困窮の中、詩作の苦しみからキーツが導き出した概念が、「受身的能力(passive capacity)」であり、共感的あるいは「客観的」想像力だ。
これが「エーテルのような化学物質」で、想像力によって錬金術的な変容と順化をもたらし、個別性を打ち消してくれる。この「屈服の能力(capability of submission)」こそが、個別性を消し去って、詩人は対象の真実を把握できると考えた。

キーツは、シェークスピアが持つ「無感覚の感覚(the feel of not feel)に気がついた。
キーツにとって真の才能とは、不愉快なものでもすべて霧消させることのできる想像力の強さであり、それを持つシェイクスピアの登場人物の行動が、読者の心の中で現実性を増す。

そしてこの「感じないことを感じる」ことや「受動的能力」の概念が、1817年12月のジョージとトムの弟二人に宛てた手紙に登場する「ネガティブ・ケイパビリティ」の概念に結実する。

・精神科医ビオンの再発見
キーツが残したネガティブ・ケイパビリティの概念は、長い間闇に葬られたままだった。(それもそのはず、キーツがその言葉を記したのはわずか1回、それも弟たちに残した手紙の中だったから)

キーツが手紙に書き記した170年後、同じくイギリスのウィルフレッド・R・ビオンにより、新たに言及されたのは、著者にとって奇跡にしか思えない。
ビオンがいなければ、200年後の今日でも、ネガティブ・ケイパビリティは闇に埋もれたままになっていただろう。
 
1934年、駆け出しの精神科医・精神療法家になったビオンは、将来のノーベル文学賞受賞者サミュエル・ベケット(1906-1989)を、患者として治療する機会に恵まれる。
 
ビオンの精神分析家としての職業、そしてベケットの作家としての職業、その二つへの刻印とは、言葉の不到達性、言葉では世界も人間の内面もすくいきれないという、悲しくも重たい実感だったはず。ベケットが終生表現したのは、世界と心をすくいきれない言葉の不完全性だった。
 こんな逸話が残っている。
ある編集者がベケットに、ある画家の作品について何か書いてくれと頼んだそう。その画家をベケットが高く評価していたのを知っていたからです。ベケットは熟孝の挙句こう答えました。
‐‐‐‐私は何かについて書くことはできない
これはベケットの心底からの叫びでしょう。ベケットの作品は何かについて書かれたのではなく、作品そのものが宇宙なのです。

~ここで、次のルドルフ・シュタイナーの言葉が分かりやすくベケットの心境を現しているのではないかと思われるので勝手に引用させていただく。
学識者が芸術作品を注釈し、解説するというのは、唯物論的な時代に出現した忌まわしい事態です。学識者による『ファウスト』注釈、『ハムレット』注釈、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの芸術についての説明は真の芸術的感受性の棺桶です。生き生きとした芸術が殺されるのです。」(『シュタイナー 芸術と美学 ルドルフ・シュタイナー著、平河出版社)
シュタイナー様、大変ご立腹です。。。
ベケットに戻ります。

『ゴドーを待ちながら』の初演に向けた役者たちの稽古でのエピソード
「この科白、全体としては、どういう意味なのでしょうか」
返事は「字面どおりに言えばいいのです」でした。
「はい、あなたのおっしゃるのは分かりますが、結局これは何を意味しているのでしょうか」
ベケットの返事は、前回同様、「字面をそのまま口にしなさい」でした。これこそベケットが行き着いた世界であり、対話の行き違い、ずれ、コミュニケーションの不成立、もっと言えば意味の拒否によって作品ができ上がっていたのです。 作品そのものが曖昧さの世界でした。

これは、意味を求めない抽象画や音楽の世界と似ています。もっと深い人間の奥底に到達するには、表層的な意味を拒否するしかないのです。

キーツがネガティブ・ケイパビリティを持ち出したのは、詩人や作家が外界に対して有すべき能力としてでした。ビオンは同じく、精神分析医も、患者との間で起こる現象、言葉に対して、同じ能力が要請されると主張した。
つまり、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度。(中略)ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉では言い表しようのない、非存在の存在。
この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着ける
のだと結論づける。

・分かりたがる脳は、音楽と絵画にとまどう
もともと音楽は、わかることなど前提としていません。悲しみや喜びを、歌詞や人の声、打楽器や管楽器、弦楽器がそのまま歌い上げます。答えを出してはおしまい、というような深みを音で追及していきます。分かることを拒否して、そのずっと奥の心のひだまで音は到達して、魂を揺さぶるのです。

分かることを拒否する点では抽象画も似ています。
二コラ・ド・スタールの「サッカー選手」
分かることを拒否したうえで、さらなる高みで感覚に訴えるのが抽象画です。脳はまたそこで、自分が一段と進化した喜びを味わっているのかも知れません。

・芸術家の認知様式
創造性の源になる認知の形式を六つの次元に分けて考察している研究がある。①    知性 ②知識 ③能力をどこに集中させるかという知的様式 ④性格 ⑤動機づけ ⑥環境の六つ。
このうち④の性格特徴として指摘されているのが、いみじくも「曖昧な状況に耐え」、「切れ切れのものが均衡をとり一体となるのを待ち受ける能力」であり、200年前にキーツが発見したネガティブ・ケイパビリティを彷彿させる。
キーツは、偉大な詩人は「アイデンティティを持たず」「この世の事物の中で最も詩から程遠い」存在だと定義する。そしてキーツ自身も、「私の発する詩的言語は、一語たりとも私の個人的な性質から派生したものではない」と断言する。それでは、「個人的な性質、アイデンティティを持っていないのに、どうして詩作が可能だろうかと自問する。
「私が部屋の中で他の人々と一緒にいるとき、自分の脳が創り出すものにはとらわれず、私自身を私に帰さずにいます。すると同席しているひとりひとりのアイデンティティが私に迫って来て、ほんの一瞬、自分が無になるのです」。自分が無になったところから、詩的言語が発せられる
と、キーツは白状している。
本書の冒頭で、多くの芸術家たちがアルコールに溺れ、また精神の不調をきたしたのを見た。これは、創造行為に伴うネガティブ・ケイパビリティの欠如だったとも解される。

・詩人と精神科医の共通点
医師になる道を歩んでいたキーツは、途中で詩人になる道を選んだ。医学は詩作と対極の位置にあると思えたからだと考る(詩人が、自らのアイデンティティを消し去って、深く対象の中に入り込むのに対し、医学は既に確固たるアイデンティティを獲得しており、明らかな目的と手段で患者に相対するから)が、医学でも、「精神医学は特殊な位置にあり、さしたるアイデンティティも、確実な目的も治療法も手にしているとは思えない。詩人と精神科医は、違いよりも似た側面が多い。」
作家であり、精神科医である著者はまた、「患者さんへの接し方と、自分が作り出した登場人物への接し方が、瓜二つなのです。何事も決められない。宙ぶらりんの状態に耐えている過程で、患者さんは自分の道を見つけ、登場人物もおのずと生きる道を見つけて、小説を完結させてくれる」とも述べている。

・理解と不理解の微妙な暗闇
シェイクスピア『マクベス』中の「きれい(fair)は汚い(foul)汚いはきれい」の一節をとっても、シェイクスピアの着眼がどこにあったのかが分かる。世界の総体、人間の全体をそのまま掴みとろうとする世界だ。
シェイクスピアのどの作品にも、シェイクスピア自身の意見なり信条は出ていない。不確実さが、大きな塊として眼の前に放り出されているので、あとは読者が読み解くだけ。読み解く視点も方向もおのずと多様になる」
作品の冒頭から結末まで、この先どうなるのか興味をかき立てられ、ハラハラドキドキしつつ、笑っては泣かされ、最後に「あ、そうだったのか、確かになあ」という感嘆に至る。これこそが、キーツが遺言した不確実さの中に、請求な結論を持ち込まず、神秘さと不思議の中で、宙吊り状態を耐えていくネガティブ・ケイパビリティだったのだ。

・紫式部のネガティブ・ケイパビリティ
紫式部もシェイクスピアと比肩できるほど、ネガティブ・ケイパビリティを備えていたと思う。
物語を光源氏という主人公によって浮遊させながら、次々と個性豊かな女性たちを登場させ、その情念と運命を書き連ねて、人間を描く力業こそ、ネガティブ・ケイパビリティでした。もっと言えば、光源氏という存在そのものがネガティブ・ケイパビリティの具現者だった。この宙吊り状態に耐える主人公の力がなかったら、物語は単純な女漁りの話になったはず。
仮にキーツが『源氏物語』を読んでいれば、ネガティブ・ケイパビリティの見事な発揮者として紫式部の名を記したのではないか。

・現代教育が養成するポジティブ・ケイパビリティ
幼稚園から大学に至るまでの教育に共通しているのは、問題の設定とそれに対する回答に尽きる。
その教育が目指しているのは、ポジティブ・ケイパビリティの養成だ。
問題解決があまりに強調されると、問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれる。単純な問題なら解決も早いからだ。このときの問題は、複雑さを削ぎ落としているので、現実の世界から遊離したものになりがちだ。
こうなると回答は、机上の空論になる。

・不寛容の先にある戦争 / 為政者にかけたネガティブ・ケイパビリティ
開戦に至る軌跡を辿るとき、私はそこに為政者のネガティブ・ケイパビリティの欠如を見る。どうにもならない宙ぶらりんの状態を耐え抜くことなく、ええいままよ、とばかり戦争に突入していく、情けない指導者たちの後ろ姿が見えて仕方がない。

・共感の成熟に寄り添うネガティブ・ケイパビリティ
自宅での食事の席で、李先生が口にされたのが「人間の最高の財産はEmpathyです。これは、動物でも備わっています」でした。
さらに次の段階では、「スピリチュアルな共感」が待ち受けている。
この共感が成熟していく過程に、常に寄り添っている伴走者こそが、ネガティブ・ケイパビリティなのです。ネガティブ・ケイパビリティがないところに、共感は育たないと言い換えてもいいでしょう。










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