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フィッツジェラルド「グレートギャッツビー」in ハコニト

4月6日(土)15時よりハコニトにてグレイトギャッツビーの読書会。
参加者は五名。
先月の東京都同情塔に参加してくれた面子。
来月の課題本も決めて、なんとなくサークル的な雰囲気ができつつあり、楽しい。

グレイトギャッツビーは三年前に村上春樹訳を読み、話の筋もポイントも頭に残っている。
同じものを再読するのは芸がなくてつまらないから、今回は村上春樹訳とともに光文社新訳文庫の小川高義訳も読んだ。
まず小川訳に驚いた。
春樹訳よりもニックが打算的で、トムもデイジーもジョーダンも露悪的。
逆に春樹訳は情景的で物語の雰囲気や空気感がすごくでていることにきづく。
読み比べてみると、相互の作品にはそれぞれ印象の違いを越え、もはやどちらにも書いていないことが書かかれてある気がして、なんだかグレートギャッツビーのパラレルワールドのような、完成前の試作品A・試作品Bを読まされているような、それはそれで面白い一方、頭は混乱するから「どっちだよ」といいたくなる。
無論、どちらも正解だから困る。

作家の文体は、工夫一つでころころ変わるようなものかもしれないけれど、実はもっと深い部分の文体というものがあって、それはその人の声や歩行や考え方みたいなものが、文体に先立って形成されているから、必然と文体はその影響を受けると僕は信じている。
翻訳によって文体の骨格は損なわれないと信じている。
けれど、この小説は「フィッツジェラルドってこんな作家だよね」と言えない何かが働いているような気がして、こうなると、小説内のギャッツビー同様、フィッツジェラルド自身が、蜃気楼のように霞みがかった存在に思えてくる。
自分なりにニックからみたギャッツビーを客観的に分析するも、どこかスッキリしない。
川端康成の雪国を翻訳したものを外国人に読ませると、「なんでこんな通俗的な話がノーベル賞をとるんだ?」みたいな議論になるらしいけれど、翻訳によって消えてしまうものって、その言語でしか表現できない何かなのかもしれない。

読書会では皆さん読まれた訳本もバラバラ。
しいていえば野崎孝訳が多かった。
とりあえず「ギャッツビーはグレイトなのか?」という話題からスタートする。

破滅的で全然グレイトじゃない。
純愛を通して死んだことはグレイト。
現実と過去の印象がどんどん乖離していく中でも最後まで腐らず死んだことはまさにアメリカ的でグレイト等々、いろいろな意見がでる。

僕は参加者のIさんが、フィッツジェラルドの妻ゼルダの話をしてくれたとき、この作品には少なからずとも私小説的な部分があるということに気付かされた。
フィッツジェラルドは上流階級の手の届かない存在のゼルダに惚れてしまう。
富と名声を得れればゼルダと結婚できるかもしれない、というかゼルダと結ばれるのにはそれしかないから、彼は小説を書き続ける。
結局ゼルダと結ばれるものの、彼女は精神錯乱を起こし、最終的にフィッツジェラルドはアル中で死ぬ。
こういう筆者の話を聞くと、ニックがギャッツビーを観る目線と、僕がフィッツジェラルドを見る目線が重なる。

ジョーダンの話になると、この物語と誰かの人生が並走するイメージがわき、話に聞き入る。
ジョーダンはニックのことをとても愛していた。たしかに。
一方ニックは田舎の金持ちの愚鈍なボンボンでその愛に気づかない。
そうかもしれない。
でもわからない。
僕はニックは繊細すぎて周りを意識しすぎた結果、盲目に陥ってしまったと読んだ。
グレイトギャッツビーという作品、訳本が読者に与える偏差が大きい以上、同じ訳本を読まないと語り合えないものがあるのかもしれない。

大切なのは、読書会ででたアイデアと僕の既存の考えが入れ替わったり更新したことで、いつもあとから、いろいろなことに気付くことだと思う。
前回に続き、つらつらとよくわからないことを書いたけれど、一生懸命に読書会をやると、もっと良い小説が読みたいと毎度思うからやはりおもしろい。
というわけで、みなさん今回もありがとうございました。



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