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竹内まりや《駅》—— 近く遠くに

前記事から竹内まりやしりとりふうに。

(※公開時に肝心の音源へのリンクが違っていたので差し替え訂正)

別件で検索中に竹内まりやの《駅》について書かれた、高井浩章氏の 『竹内まりやの「駅」の「私」は、最後のLalalaでもう一度電車に乗る』(note.com 2020/01/05) という文章に行き当たる。

この曲の歌詞について有名な問題は 「私だけ 愛してたことも」という句の「だけ」の後に想定されている格助詞は「が」か「を」かというもの。これはネットを一時期賑わせて、それをもとに多くの人がそれぞれの解釈を述べているが、すでに「が」か「を」かの問題は歌詞を注意深く読むことと、何より作者の竹内まりや自身の証言で「を」ということで解決している[*]。

高井氏の文章はそこから話を持っていく、いわばこれまでの一連の解釈の中の一つに過ぎないけど、さらに踏み込んだ全体の説明に唸り何度か読み返し、新たに曲を聴き直してみた。


興味のある人は上記の文章を読んでもらうとして、私がこの歌詞の解釈に付け加えるものはもうほとんどない。

が、一つだけいうと、最終連の「消えてゆく 後ろ姿が/やけに哀しく 心に残る」の「やけに」については見解がある。高井氏はこの箇所が「軽い瑕疵のように思えた」という印象からはじめて、しかし、「ここは『やけに』しかない…」と逆に唸らされた。」と解釈を深めていく。実は私もこの「やけに」には大きな違和感をずっと持っていた。これが筆の滑りでなく意図的なものだとすると、この違和感は、記号論的解釈でいうところの「有標 marked」のポイント、特異点、あるいはより深い解釈への「窓」というものになるだろう。筆者の解釈はまさに、そのポイントの存在から導き出されていくもので、その先の解釈は説得力がある。が、だがまだだ、なぜに「やけに」なのかという点については全面的には納得はできていない。

それを補うために私が付け加えたい解釈は、この「やけに」はここで対象になっている男性の口癖ではなかったかというものである。とすると、この歌の中で、たった一箇所だけ対象の男性が、語る女性の主体に侵入する貴重な瞬間ということになる。そのくらい考えないと、この違和感はなかなか解消できない。

高井氏の文章に戻ると、

この曲は最後、『Lalala……」というリフレインで終わる。
カラオケだと「もういいから」と切られてしまうほど長いリフレインだ。
だが、竹内まりやと山下達郎が、「ここはちょいと余韻を残しておきましょうか」といった程度の意図で、こんな長さのリフレインを挿入するはずがない。

という疑問に発し、

私は曲がこのリフレインに差し掛かると、踵を返して再び改札を通り、一人で電車に揺られる「私」の姿を思い浮かべる。

という、この文章の肝とも言える解釈があり、文章のタイトル「竹内まりやの「駅」の「私」は、最後のLalalaでもう一度電車に乗る」そのものはそれに由来している。この解釈全体に強い説得力がある。

一方、残念ながら高井氏も、またネットで見る限り誰も、この楽曲の音楽的側面については触れていない。ここからの私の文章は、上記の解釈を大筋で踏まえた上で、音楽的側面についての補足。

実を言うと、この曲は個人的には竹内まりやの曲の中では苦手な部類に属するものだった。カラオケでいくつか彼女の曲を歌うけど、この曲は一度も歌ったことがない。理由は、あまりに ——とくに音楽的なつくりが——「ベタ banal」で、こういうように作ればウケるだろうというような、ある種の「あざとさ」が透けて見えたからだ[**] 。だいたいがアルバムの他の曲の流れでついでに、そのあざとさにざわっとしながも適当に聴き流していたので、この度初めてまじめに聴いてみた。

あざとい部分も含めてよくできている。まず問題の最後のリフレインの部分。

繰り返しながらフェード・アウトしていくのは常套手段だが、その際、音量が減少するだけでなく、声のほうにリバーブが次第にかかり、遠近法で行くと遠くに退いていく印象を与える。つまり確実に、そこでこれまでの語りの世界が別のものとして閉じる。映画で言えば、これまでの情景がしだいに遠景となるとともに、ピントがぼやけて見えなくなってくるのと同じ効果を持つ。上記の文章の解釈に即すなら、電車が進むごとに、先ほど一度降りてみたあの改札が、置き去りにしたようにどんどん遠くなっていく感じか。それとともに、今まで物語を語っていた主体も消失して行き、それに代わるように、それを目撃している今の自分の存在が、無言のうちに強く意識されてくる。2年前までの物語の私 → それを思い出す事象に今しがた立合い、それを語る私 → 物語を閉じた今の私…そんな感じの三段がまえ。

それを考えると、そもそも音響的にはこの曲全体の作りが「近 → 遠」となっている。

面倒なので楽曲の作りをざっくり図式すると、それぞれ内部が2つに分かれるヴァース(V) とリフレイン(R)の交代からなって、次のようになっている。

- Introduction (4小節)
- V1 : v1(2行、8小節) + v1’(2行、8小節) [見覚えのある…+ はやい足どり…]
- R: r(3行、8小節) + r’(3行、8小節) [懐かしさの…+ あなたがいなくても…]
- V2 : v2(2行、8小節) + v2’(2行、8小節) [二年の時が…+ それぞれに待つ]
- R: r(3行、8小節) + r’(3行、8小節) [ひとつ隣の…+ 今になって]
- Interlude (8小節)
- R: r(3行、8小節) + r’(3行、8小節) [ラッシュの人波に…+ 改札口を]
- R R … FO

この中でリフレインはストリングスオケとギターから成る割と均一な音響構成を持つ。その回帰を挟みながら物語はイントロから最後のリフレインの繰り返しの、先程述べた音量的、空間的フェードアウトまで、音響的変化を伴い進行している。

イントロダクションとv1 (第1ヴァース前半)で、主役を担うキーボード(音的にはエレピ)は近接の等身大の距離感を持っている。自室のミニステレオか、ライブで言えば小さなライブハウスのかぶりつきくらいの距離感。マラカスの音色を持つ機械的なリズムボックス風の刻みは、否応ない時の進行、あるいは線路を進む電車の音が支配する時間の流れを作るだろう。

その繰り返しになって v1’ (「早い足取り〜」)で、なんとチェンバロの音を模したアルペジオが入ってくる。
これに今回気づいたときには驚いた。
2018年にルーマニアでやった学会で「 The Use of the Harpsichord Sound in Japanese Popular Music in 1970s: Exotic Attraction and Appropriation 1970年代の日本のポピュラー音楽におけるチェンバロ・サウンドの使用 —— エグゾチックな誘引と我有化」という発表をしたときに、1970年代の一時期に日本のポピュラー音楽においてチェンバロの(を模した)サウンドは、「大人の」 — しばしば婚姻外の関係にある — 恋愛と結びついたトピックとして機能し、一時期衰退したあと1979に一挙にまた戻ってくる、その現象の典型的な楽曲が1979年のロス・インディオス&シルヴィアの《 別れても好きな人 》だと紹介した。それを思い出すとき1986年の《駅》におけるこの部分でのチェンバロ音の使用はこの文脈に無縁ではない。無縁ではないどころか、この駅は「渋谷駅」であり、《別れても好きな人》の「別れた渋谷で会った」というフレーズと比較する人もネット上でいる

「はやい足どり まぎれもなく/昔愛してた あの人なのね」で加えられるチェンバロの音は、明らかに二人の関係を示唆するのに役立っている。2018年の発表をしたときに、1980年代後半の楽曲もざっとチェックしたのだが、この曲のこの部分はまったくアンテナにひっかかって来なかったので、今改めて驚いた。

チェンバロ・サウンドはこの後、アルペジオとしてずっと響いていくのだが、この部分のようにフォーカスを与えられることはなく、背景に退いていく。

リフレインに入るとストリングスオケとギターで音響はかなり遠くに引っ込むが、語りは直線的に続いていく。大きな弧を優先させて、ここで特に語りの内容とサウンドを一致させようとする意図はないようだ。

語りは直線で進むが、音響的にはロンド形式になっていることが、物語の基調を保証しているというべきか。

ヴァース2に入ると(「二年の時が」)、ギターがフォーカスされる。このギターは、はっきりしたフュージョンのスタイルで、リフレインのときのストリングスオケのバッキングと違う。ライブハウスに戻り、先程の至近距離のエレピのソロから少しだけ広いステージ空間を作る感じ。つまり、親密圏が少し拡大されて戻ってくる。

それがヴァース2後半(「それぞれに待つ人のもとへ」)になると、ストリングスオケの旋律が入ることにより、さらに遠くに視点が引き空間が一挙に広がる。基本的にリフレインのときの音響空間と同じ、これ以降、親密な距離感が戻ることはない。

このあと、この遠く開いた空間の中でリフレインが繰り返され、上述の、音量的・空間的フェードインへとなっていく。実を言うと、ギターの奏法が指し示すものなど、もう少し細かく分析できるような気がするが、今の自分の持ち札ではこのあたりが限界。

にしても上に引用した文章に示された歌詞の構成といい、音楽的・音響的な構成といい、極めて巧みに作られた楽曲だと改めて思う。ある意味、「あざとい」と以前から持っていた印象が、単にクリシェを使ったものというところから、そうでない高次のものというところに強められる。

「あざとい」というかどうかは別として、あれやこれやいったん解釈を掘った後に聴くと、単なるトーチソングでない、この歌の「力強さ」が印象に残る。身も蓋もない言いかたをれすれば、勝利宣言+ひりっとするおいしいノスタルジーを味わったあと蓋をするような。

「この街に ありふれた夜がやって来る」

何年かに1回、カラオケでジェンダー問わないトーチソングばかり歌いたくなる衝動が戻ってくる —— 前回は4年前だったか —— ので、そろそろその時期になってもよいが、幸か不幸かそれが許される状況ではないし、たぶん行けても、この歌はやはり自分は歌わないだろうなと思う。


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[*] 「『私を愛してた』だとリズムが間延びするから『私だけ』にしたわけです。あそこは、私だけ”が”愛してたのか、私だけ”を”愛してくれてたのかどっちなんだって、よくリスナーの皆さんの間でも語られていますが、私だけ”を”が正解なんです。」(竹内 2013 https://natalie.mu/music/pp/takeuchimariya02/page/2 )
[**] これについても本人の言 ––「歌詞自体は当時の私が歌ってもそんなに違和感のないものだったと思いますけど、マイナーコードであれだけベタな歌謡曲メロディを書いたことはなかったんで、それ自体が面白かった。」(Ibid.)


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