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布地の感覚 —— ギオ・ド・ディジョン、竹内まりや

彼は自分の着ていたシャツを
送ってくれた。私が抱きしめられるようにと。
夜になって、彼への愛が胸をえぐるとき
寝床にそれを持ってきて
素肌に抱きしめるの
この苦しみが和らぐようにと

13世紀前半に活躍したトルヴェール、ギオ・ド・ディジョンの歌の一節。

1995年から2006年までコレージュ・ド・フランスで中世文学を担当していたミシェル・ザンク Michel Zink が、2015年に出版した、中世文化史全般についての一般向けのエッセー集« Bienvenue au Moyen Âge 中世への招待» の中で紹介してくれていて知った。

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ザンクが2017年に著した « Les Troubadours : Une histoire poétique トルバドゥールたち、その詩的歴史 »は、彼の研究の集大成のような趣があり、おいそれと全部は消化できないが、こちらの« Bienvenue au Moyen Âge 中世への招待» のほうは、もう少し気軽。もともと1回3分の本人による40回の連続ラジオ放送コラム (France Inter)をスクリプトを若干改訂して書籍にし、各回を1章として、40の短い章から成っており(放送の録音のほうもまだFrance Inter のサイトでもPodcast で聴ける)、ものの性質上、文体もスムーズで、活字だけ読んでも短い読み切りになっているで、諸々の悩ましい仕事の合間の息抜きというか逃避にちょうど良いということで、読むとはなしに読んでしまう。が、肩が凝らないと言っても碩学の知のエッセンスが凝縮されているので一回一回が深い。

冒頭の詩句は、「女性たちの歌 Chansons de femmes」と題する第5章で紹介されており(放送では2014年7月4日ぶん)、歌は、恋人が十字軍に出征した女性が語り手になっている。これ自体も中々官能的だが、この詩にザンクは次のように注釈している。

この詩句の大胆で痛みに満ちた官能性を理解するには、知らなければならないことがある。若い女性が素肌で抱きしめているこのシャツは、ごわごわと粗い麻でできた、ほとんど修道僧の苦行衣に近いもので、十字軍参加者が遠征の最初の旅程の間、悔い改めのために着ていたものなのである。

読んだ瞬間ぞくりとした。学問を極めるってすごい。こうした考証のできる知識と、それを、皮膚感覚につなげる想像力。それが、この詩から妖しい官能性を引き出す解釈へ繋っている。

この詩をギオ・ド・ディジョンによるものとすることには、実は疑義もあり、それも当然だろうとザンクは言う。そして、女性によるものかもしれないと示唆する。その一方で中世世俗歌曲には、女性を語り手としながら男性が書くケースも多かったと述べる。

そう言われても、こうした性の超越は日本人にとってわりに普通の現象で、たからどうした?と言いたくなるが、現代の欧米のポピュラー音楽が、詩の内容の語り手と歌い手の性別の一致にやたらと拘ることを考えると、たしかに特筆すべきことなのかもしれない。ザンクは「少なくとも詩の中においては、男も女も、互いに相手の性の立場に自分の身を置く能力があるというのは、何にしても、ほっとすべきことではないか」と話を締める。

改めて考えてみるに、それが女性的かどうかは別としても、布地が皮膚に触れる感覚を小道具とした歌は、あまりない気がした。シルクやビロードの肌触りのようなクリシェを別とすれば、それが特定の状況の特定の意味を喚起する使いかたは、なかなかない…と、言いながら、時代と場所をかなり飛ぶが、ふと思い出したのが、竹内まりやの 《明日のない恋》(2007、アルバム《デニム》所収)という歌。

この歌の第2節に出てくるのが、

カシミアの腕枕で
見つめるあなたの瞳

という句。

ところで、音節や韻を別にして、なぜこここが「カシミア 」でなければならないのか。

歌詞全体は、お互い別の私生活のある男女が、情熱的な一時の恋愛関係を、お互い納得ずくで終りにしようとしている場の情景とその時の心の揺れを主題としている(音楽は、歌詞の割には人をくったような軽妙な調子)。

第1節で、二人が「人里はなれ出かけたヴィラ」で「ブランケットにくるまって言葉もなく抱き合い」という状況が提示される。第2節で、「焔がやがて燃え尽きるように この情熱も 終りが来るの?」というように、別れの主題に焦点が移り、その場を発とうとするところになる。そこで登場するのが「カシミアの腕まくら」のフレーズ。

そのカシミアが具体的に何なのかについてたぶん解釈が二つあるだろう。「一つはカシミアのセーター」、そしてもう一つは「カシミアのコート」。歌詞のコンテクストからはこれ以上は決められず、もしかして、これが主題歌となったドラマの映像のなかに何かヒントがあるかもしれないが、私の解釈では後者ととるほうが、主題が何倍も引き立つ。

第1節のブランケットから、第2節では、すでに少なくとも相手はコートを着ている。2節のその前に出てくる、「苦いココア分けあい」のフレーズは、旅立ち前の朝食を示唆するだろう。この、コートを着ている状態からさらに、腕枕というのは、そこへ至る時間の流れ、逡巡、後戻り、滞留を鋭く喚起する。布地の材質の名一つで、歌の主題そのものを凝縮し象徴するような、そのときの状況を視覚的にもピンポイントで描き出し、さらにそれを皮膚感覚で痛みとして呼び覚ますのは、やはりこの詩人もただものではない。

ザンクのトルバドゥールの本で知ったものの一つに、彼らがその詩で使った中世オック語独特の語=概念がある。現代フランス語で、「la joie 歓び」と訳される語源を同じくする単語がオック語には2種類あり、その一つは、女性名詞の la joya でこれはほぼ la joie に対応する。もう一つが、男性名詞の le joi でこちらは、現代フランス語に対応すものはなく、「苦悩に苛まされた歓び la joussiance tourmentée」、あるいは、「愛の、不安に満ちたほとんど苦痛を伴なう高揚感 l’exaltation inquiète et presque douloureuse de l’amour」だと説明される。「悩みをつきぬけて歓喜に至れ」などという単純なものではなく、その状態がすでに「歓喜であり苦痛」なのである。こうした心持ちというのは、人の心情において、そしてその文学的表現において、特別なものではないが、それを一語で表わす単語があるとは知らなかった。恐るべしトルバドゥール文学。

この概念を知ったとき、日本語でどう訳すのがいちばん分かりやすいか考えていて、やはり「苦痛とないまぜになった歓び」とか、そんなところかなと思っていたが、前出の竹内まりやの歌を改めて聴いていて、その第1節を締める句が「痛みと背中合わせの歓び」となっているのに気づくというか、思い出す。それ、le joi そのものではないか…

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