『善の研究』研究準備

 自分の考えていることや感じていることを言葉にすることは、それを外の世界へひらくことであり、同時に、自分の心の内奥へと潜っていくことでもある。暗くて底の見えない竪穴(そこには霧もかかっている)の、もろい外壁にそっと梯子をかけながら降りていくように。だから(だから?)『メイド・イン・アビス』のような、「底へ降りていく」物語の、その構造が好きだ。あるいは『少女終末旅行』のような物語が(これは「昇って」いく話だったけど)。

 『100分de名著 善の研究』を読んでいる。読書家で議論好きな物理学徒の先輩からひさしぶりに連絡がきたと思ったら、「暇になったのなら読書会するぞ、西田幾多郎の『善の研究』を読め」と言われたのがことの発端だった。彼もちょうど本業の研究がひと段落ついたところだったらしく、つまり、暇つぶしに付き合えということらしい。でも僕の頭と忍耐力では手も足も出なさそうだったので、手のつけられそうなところからはじめることにした。ひとの解釈はどこまでいってもひとの解釈でしかないので、最終的には素手で格闘しなければならなくなるのだろうけど、とっかかりがまったくないよりはましだと思う。なければすぐに滑落して、訳もわからないままおしまいになってしまう。

 「まごころ」ということを考えていた。僕はここ数年、もっとかもしれない、ちゃんと向きあっていなかったから、でも、最近すこしずつ、ほんとうにすこしずつだけど、ちゃんと向きあおうとしはじめている(とすくなくともそう信じ込んでいる)から。「まごころ」が大事、なんて言葉にしたとたん陳腐に、胡散臭くなってしまう類のものだ、とくに斜に構えた精神にとっては。だから(だから?)、そういう世界の片隅のひねくれたものたちのために、物語や詩なんかが比喩をもって、そういった物事を伝えてくれる、救済として存在するのだろう、などと、すぐに主語を大きくしてしまうのは悪い癖だと思うし、まだ何かを覆い隠してしまっているように思う、ちゃんと目を見てものを言えてないように思う。

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