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冬の棘

むかしむかしある所に、ひとりの少年が産まれたらしい。その少年は自分が産み出された側にも関わらず、それを忘れて、自分が産み出す側だと宿命のように感じていた。

少年は自分が少年だと呼ばれなくなった頃、周囲が色めき始めたのに気付く。浮かれた男女を見て、しょうもなくて下品な奴らだと見下し始める。しかし、彼はまだ知らなかった。自分が一番下劣で、将来に何の望みも持てない人間であることを。

少年がまだ幼い頃、公園の遊具には目もくれず、かといってサッカーやキャッチボールをやっている集団に入ることも無く、公園の日が当たらない位置に設けられた冷たい砂場で何かこの世に存在しないものを作ろうとしている時、後ろから忍び寄る影があった。絶対に、その影に捕まってはいけなかった。だけど俺、いや、その少年は影がジリジリと忍び寄ってくることに気が付かなかった。少年は不用心に背中を見せたまま、その影に捕まった。ここでいう影というものは、名探偵コナンに出てくるあの犯人のようなものではなく、もっと実像のないものだ。例えば人生とか、冬とか、枕とか、水とか、ハンコとか、聞くだけで憂鬱になるものだ。メンヘラとか、確定申告とか、満員電車とかは違う。明らかに嫌だからだ。それよりもっとぼんやりとしていて、だけど突き詰めて考えたら死にたくなるようなものが、影になって少年の頭上から覆い被さった。少年は突如として暗転した人生に気を失い、砂場で倒れた。公園の砂はサラサラじゃなくてグチャグチャだったから、それは不幸中の幸いと言えた。器官に砂が入って、死ぬことはなかった。

少年は青年になって、女の子と付き合ったり別れたり、恋敵に暴言を吐いて絶交したり、或いは糞みたいな暴言を投げつけられてプライドに傷をつけられたりした。その段になると、感情があまり動くことのなかった彼は、徐々に喜怒哀楽やそのどれにも付随することのない感情を覚え始めた。彼はそれの名付け親になりたいと思い文章を書き始めたが、日の目を見ることはなかった。そして、小説を書けば書くほど普通の友達を失い、奇人ばかりが集まってくるようになった。だけど、そのどれもが愉快だった。愉快だから消費はしたけど、深く付き合うことはなかったし、数人は今どこで何をしているのかも分からない。ただ、その変人たちの社交場でも、彼は完全な変人になることはできず、影に置かれたままだった。その間にも、時計は非情に廻っていて、とうとう周回遅れになった。悔しくて悔しくて奥歯を噛み合わせたら、苦い砂の味がした。

青年はカラオケでバイトをし始めた。砂の味がすることも減り、青年は身をすり減らしてバイトに明け暮れた。だけど、人間が誰しも他人を誰一人傷付けることなく生きていくのが難しいように、青年もまた同じ職場の人間を傷つけているようだった。青年は口が悪いことや性格がねじ曲がっていることを頭の片隅で理解しつつも、それは自分のキャラクターであると捉えると同時に、面白くもない原液の毒は出さないように上手く立ち振る舞っているつもりだった。しかし、青年は「先輩を舐めている」というありもしない言いがかりをつけられ、店長と面談をする羽目になっていた。青年はそのタレコミをつまらないなと思いながら聞いた。話の前に、「何か思い当たることはあるか?」という趣旨の質問をされたのも不快だったし、彼は反抗期の中学生か何かか?と頭の中で考えていたら笑いそうになってしまって、すんでのところで堪えた。「舐めてんのはお互い様だろ」っていうセリフも慌てて呑み込んだから、我慢の限界を迎えて変な体液が放出されるのを彼は懸念した。当然、話は全く耳に入らなかった。だけどその時期、彼は学生でありながら部活をこなし、バイトも月100時間近く働いていたから、それを誇っていた。それが傲慢だったのではないか、謙虚ではなかったのではないか、などと可能性を検討し始めた時、ふと疑問が浮かんだ。

〈こんなこと言うやつマジでなんなんだ? そいつは聖人君子か何かなのか? 確かに、ネタで先輩いじることとかは俺だってあるし、伝わってなかったのなら悪いって思うけど、〝生意気〟ってどの目線で語ってんだ? ああ、こういう目線か。だとしても、悪いとこなんてその時教えてくれりゃあ俺だって直したはずだぞ? なんでそれを一番に店長に告げるんだろうなぁ。世の中のハラスメントとかってこうやって産まれんのかもな。てか、この面談って何人かが同じこと感じてて、それが深刻な問題だからこんな雰囲気なのか? ルームの電気つけろよマジで。逆にカラオケの機器は消せ、バカが騒いでてうるせぇ。あぁ、何度も見たコマーシャルが何倍にも癪だな。畜生、この調子で話してたら勤務時間終わっちゃうよ。どこで判断間違ったんだろうなぁ。こんな告発者がいるような互いを信頼し合えない職場に入っちゃったことかなぁ。いや違うわ、もう俺生まれた頃から間違いしか選んでないし、失敗しかしてないわ。もういいよ、干したいなら干せばいいし、殺したいなら殺せばええやん。勝手にしろよカス〉

そんなことを考えたら、また砂の味がして、彼は喋れなくなってしまった。口の中が酷く乾いて、唇は戦慄くように震え出した。本当は怖かったのだ。自分が信じられなかった。無意識のうちに誰かにハラスメントをしているということは、自分の意識が器を抜け出してる瞬間があるかもしれないということだ。ストレスは徐々に蓄積され、砂漠のように潤いを奪っていくのかもしれない。心に潤いのない人間が、ヤスリのように他人を傷つける。その他人は、いつしか自分になっている可能性があって、つまり彼は彼ではなくて、俺は俺ではなくて、君は君じゃない。泣きたかった。放心しながら頷くだけしかできない彼は、新店のオープニングスタッフとして、その店から異動することが決まった。帰り道、やけに星が綺麗で、吸い込まれそうになった。だけど、それですら騙し絵のように空々しいと思った。

ずっと冬が続いていた。冬が終わったと思ったら、またストーカーのように寒さが顔を出した。一度心を穏やかにさせる青空は、DV男の常套手段にも似ていて、青年はそれもこれも自分のせいにした。黒ばかりのコーディネートで街を歩く彼は、冬を殺したいような目をしていたし、夜に擬態したそうだった。電話など鳴っていないのに受話器を取って、暴言を喚き散らしていた。マンションの窓に隙間など無いのにガムテープを持ち出して、びっしりと隙間を作らないように貼っていた。きっと彼は一生、春を見ることはないのだろうと思った。彼にとっての川は三途で、世界は動物園で、社会は張りぼての立て看板で、愛は搾取だった。農園で大麻栽培をして金を稼いだり、病的に達磨が沢山並べられた部屋で眠ったり、美容のために最も仲のいい人間を殺害して食べたり、そんな夢ばかり見た。自分の中のダークな教科書が改訂される度に、目を輝かせて友達に話した。

違った。

友達なんて一人もいなかった。舞台に俺は一人で、空を飛ぶはずが頭から逆さに吊るされていた。「早く物語れよ、お前にはそれしか用ないんだから」と誰かの声が聞こえて、白目を剥く。掻き乱す前に、掻き乱されてるようじゃタダのゴミやん。文学童貞はとりま死ね。

……。

なぁ、どこまでが俺の話か教えてくれよ。
どうせフィクションだって笑ってねぇでさ。書き手と主人公の思想には距離があって、ほんとは90度くらい違うんだぜ? そこ分かってもらえないと、結構キツい。あと、マジで小説を舐めてる奴は粛清されるから。言いたかったことは、ただそれだけ。ここまで読んでくれてありがとう。今度は君が物語る番だ。

【完】

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