分人主義で気が楽になる

平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』という本を読みました。
本来、不可分である個人を分けて、分人という単位で考えるというアプローチに大変興味を持ちました。
ちょうど、先日、同僚が「自分は、オンラインゲーム上では別人格になる」という話をしていました。私はオンラインゲームをやらないので、よくわかっていなかったのですが、それは、単にゲームという遊びの中で、一つのキャラを演じるということだけではなく、オンラインゲームをする仲間との日々の関係性も含めて、別人格だと言っていたのが印象的でした。
なるほどなと思ったのですが、自分自身もキャラを使い分けているところがあると思いました。中学時代、高校時代、大学時代、前の会社の時代・・・、大学時代でも授業をよく一緒に受けていた友人たちと一緒の私と、サークルの中にいた私では違っていたかもしれません。どちらかというとマイペースで、大学デビューをしようとかも思わず、淡々としていたつもりではありますが、構成メンバーが違うと、自分の役割を変えていて、役割を変える中でキャラも変わっていたかもしれません。
もっというと、1人ひとりと接している中でもキャラが変わっているのかもしれません。それは全員に好かれたいから、それぞれの人に対して良い顔をしようとする八方美人的なことではなく(むしろ忌憚のないことを言って波風を立てるほうが多いかもしれません)、相手とスムーズな会話をしたいがために言い方を変えたり、身振り手振りが多くなったり少なくなったりする中で性格やキャラが異なって見えるといったほうが正しいのかもしれません。
それが相手にとってしっくりくれば、話しやすい人とか、相性が良いと映るかもしれませんし、逆に、私が言いたいことがちっとも伝わらないと感じられたら嫌や人に映るかもしれません。
私が、変にキャラを隠そうとか、特定の良いキャラを表に出そうとは思っていないものの、結果として、集団やその中の一個人に対して、少しずつ、表層的な自分が変化しているように、他人もキャラが特定の1つではなく、状況や相手によって、結果として使い分けられているのだと思います。
例えば、自分の周りの人が「Aさんは付き合いにくい、接しにくい」と言っていたのですが、実際にAさんに会ってみると、とても良い人で、接しやすい人だったことが何度もあります(逆もあります。。。)。
私は、人付き合いが良いとか、誰とでもすぐに仲良くなれるというタイプではない(どちらかというと逆だと思います)にもかかわらず、周りの評判とは裏腹にうまくつきあえたりすることがあるのは、相手の分人と、私の分人がたまたまうまくフィットしたということだと思います。
そうやって考えると、随分気が楽になってきます。
影響力のある人に嫌われることで、その組織の中で居心地が悪くなってしまうことは、あると思います。それは学校であっても、企業であっても、プライベートの集まりであっても起こりうることです。
しかし、自分自身の全人格が否定されたわけではなく、たまたま、そのコミュニティにおける私の分人が合わなかったと思えば、割り切ることができます。大企業のように、人が入れ替わる組織であれば、ネガティヴケイパビリティを発揮することができれば、嵐は過ぎ去るかもしれません。
あるいは新しい組織に飛び込むことによって、自分の新たな分人が出てくることによって、新しい成長機会に恵まれることもあるかもしれません。もちろん新たな分人といっても、いきなり自分の中のスーパーマンが出てくるわけではないので、そんなに劇的に変わるわけではないと思いますが、自分にも分人があり、相手にも分人があると思うだけで、寛容になれ、もっともっと生きやすい世の中になるのではないかと思いました。

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