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経験から学んだ「リーダーのあり方」

こんにちは、やまもんです。今日中学校では始業式がありました。

突然ですが、集団がまとまろうとする時、あなたはリーダーが必要だと思いますか。 

多くの人が互いに関わり、さまざまな考えや立場が交差する集団において、全体の秩序を正し、まとまりを保つために、やはりリーダーは必要だと思います。

僕は去年中学2年生になり、勇気を振り絞り、学級委員を務めました、その中で感じたことは第一にその必要性、そして感謝と理不尽さでした。表に見えない仕事や、いわゆる雑用と呼ばれる作業は決して雑多な作業ではなく、クラスにとってとても大切で不可欠なものでした。良かれと思って行動したことが思わぬ反応で帰ってきたこともありました。自分の無力さに失望したり、支えてくれた級友や助言をくれた先生に感謝したことや、さまざまな意見に理不尽さを感じたこともありました。僕が十分な役目を果たせたのかは別として、これらの経験が僕に考えさせたことは、集団にリーダーは必要なのだということです。

そもそもリーダーとはなんなのでしょうか。

大昔、リーダーは選出するというよりは力の強いものや、財力のあるもの、また意志の強いものがその役を必然的に担ってきた歴史があります。また、野生の動物の世界でさえ集団にはボスが君臨し、群れを統括しているのが自然界の流れです。世界には様々なリーダーが存在しました。フランスを発展させたナポレオン、大衆を魅了し導いたインドのガンジー、今では残忍な指導者として名の残るヒトラーもその1人です。各々の時代に民衆はリーダーをたて、そしてリーダーに民意を反映させてきました。リーダーには大きな大きな責任が伴うのも事実です。集団を代表するということはその総意を代表することでもあります。大きなリスクを背負う時には、江戸時代の農民一揆でわざわざリーダーが分からないように傘連判状が作られたほどです。時に、善きも悪きも代表しなくてはいけないのがリーダーなのです。

現代社会においては、必ずしもリーダーは敬われたり他を指示する様なものではありません。リーダーは多くの意見を取りまとめたり、集団が集団として機能するために必要な働きをするものだと思います。そこがリーターとボスとの違いだと思います。人々が個として生きることを尊重することも重要な要素です。つまりリーダーは、集団を支える縁の下の力持ちです。

では、なぜ人はリーダーを務めようと思うのでしょうか。

苦労やリスクを背負ってまで人はなぜリーダーに立とうとするのでしょうか。そこには様々な思いがあると思いますが、共通して根底にあるのは、その集団をよりよくしたいという強い気持ちだと思います。また、その強い気持ちにとって、大変な仕事や苦労は苦痛ではないのかもしれません。

僕が去年学級委員に立候補した時に考えていたことは、新たなクラスを温かみのある協力し合えるようなクラスにしたい。そのために役に立ちたいということでした。クラスのために働きたいという強い思いがありました。ですが、実際は助けられてばかりだったと感じています。そこで気が付いたことは、リーダーは支えられて初めてリーダーであるということです。その時まで、集団のリーダーは対人スキルの高い適性のある人がそつなくこなす、自分とは遠い遠い役回りだと思っていました。初めて集団を束ねるという立ち位置に飛び込んで、その苦労、苦悩を知りました。また、集団をまとめるために考え、人との関係を大切にし、いつでも集団のために努力をしている役、それがリーダーなのだと初めて知りました。そして、集団のことをよりよくしたいと願っているのは集団の一人ひとりも同じ気持ちなのだということも再確認しました。自分のいる集団のことを真摯に考え、行動してくれるリーダーに対して、僕は心から感謝をしています。

僕は当時の経験で、リーターとは集団を支える役であり、同時に人々から支えられる役だということを知りました。つまり支え合いなのです。これは、何も個別の集団に限ったことではなくて、人と人との関係は結局のところ支え合いによって成り立っているのです。僕が社会に出た時もきっと、様々な場面で様々な立場があり、それぞれ責任がある中で、人は支え合いながら協力していることでしょう。

14歳の前期に、僕はリーダーとは何か、そしてそのあり方について学ぶ大きな経験をしました。この貴重な体験を活かし、この先続く長い道を前を向いて歩んでいこうと思います。

最後まで読んでくれて、ありがとうございました。


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