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東京砂漠で蘇った魂の記憶~タントラマンへの道(第46話)

前回は、大学進学のために上京してから習慣化してしまった揚げ物&インスタント漬け生活について書きました。
そして、その成果は25年後には体重が自己最高を記録したとの結果のみを先に記しておきました。

今日は、大学を卒業して社会人になってから生じた、その後の人生大きな影響を与えた出来事に至る過程を記しておきたいと思います。

食事とは直接関係する話題ではありませんが、後々繋がってきますのでしばらくお付き合いいただけましたら幸いです。

過酷な都会生活

大学進学のために上京し、卒業後もそのまま東京で就職しました。
当時は、4年の秋から就職活動(企業面接)が解禁になるとされていました。
私はそれを真に受けていたので、協定をしっかりと守ったのですが、
協定とは名ばかりで、リクルーターによる面接ははるか前から行われており、人気のある企業などは解禁日の時点では既に採用枠は埋まっており、採用活動は建前上実施しているだけだったのでした。

なかなか内定がもらえないでいた時、友人から「ソフトウエア業界ならすぐに内定がでる」という話を聞いたので、さっそくめぼしい会社をいくつか選んで応募してみました。

すると、噂通り、受けた会社は全部内定が出るではありませんか!
その中で一番条件が良いところに決めてあっけなく就職活動は終了したのでした。

でも、コンピューターなど全く興味も無かったので全くの畑違いでした。
それでも、やってみるとそれなりに面白かったのです。
それに、技術職なので「営業とは無縁」というのも良かったです。
就職活動にあたっては、「文系=営業」という思い込みがあったので、
就職することは気が重かったのですが、まさかこんな手(就職先)があったことは嬉しい誤算でした。

しかし、仕事はハードでした。
深夜まで残業して終電で帰宅は当たり前。
徹夜や休日出勤も多かったです。

でも、その分、収入も増えたので貯金はどんどんたまり、株式投資の原資に回すことができました。
株式投資には学生時代から興味を持ち始めていて、ある程度の貯金が出来たらデビューしようと考えていましたが、意外と早い時期に実現しそうでした。
このことに関しては、また機会を改めて別のコーナー(トレード編)で書く予定です。

多忙以外にも大変なことがありました。
通勤地獄です。
これは本当に凄かった!
朝の通勤時間帯は、私鉄も国鉄(まだJRになっていなかった)も地下鉄もすさまじい込み方でした。
私はまだパワーがある方だったので、おしくらまんじゅう合戦に勝ち残ることができましたが、か弱い女性などは気の毒でした。
山手線に座席の無い車両(いわゆる『家畜車両』)が登場した時には、そんな扱いをされる身に嫌気がさしたものでした。

スキューバダイビングとの出会い

そんなある日のこと、同期の友人から、「スキューバダイビングを始めたところ、面白くてハマっている」との話を聞きました。
そして、ダイビング雑誌を貸してくれたのですが、掲載されている写真を観て驚きました。
日本近海、特に東京近辺の海は、汚染されていて濁っているだろうと思い込んでいたのですが、伊豆半島や伊豆大島の海は、思っていたよりはかなり綺麗で生物もたくさん生息しているようだからです。

それから程なくして、運良く、メンテナンス主体のプロジェクトに配属になりました。
新規開発と異なり、メンテナンスでは定時に帰れることが多いのです。

そこで、早速ダイビングを始めてみることにしたのです。
結果、誘ってくれた友人よりもはるかにどっぷりとハマってしまいました。

毎週週末は泊りがけで伊豆大島を初めとした伊豆諸島に出かけ、
たまに沖縄の離島にも遠征しました。

最初の一年だけで200本以上潜ったのですが、これは普通のサラリーマンとしては、なかなかのものだったようです。

そして、このダイビングにのめり込んだおかげで、小学4年の夏休みに田舎から都会に引っ越して以来忘れていた何かが、再び目覚め始めたのでした。






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