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花魁の好んだ辛いそば汁 (役に立たないそば屋の話1)

    紀伊国屋文左衛門 (きのくにや ぶんざえもん)といえば、江戸時代中頃に活躍した材木商人。
 大もうけをして、派手に遊んだという話が伝えられている。
 当時遊ぶといえば、江戸の吉原。
 ここにはきれいな女性が揃い、おいしい食べ物が、豊富にあったそうだ。

 文左衛門は、二千人の遊女がいたといわれる、この吉原の門を閉めさせ、つまり、貸し切りにして、小判をばらまき、豪華に遊んだと言う話が残っている。
 そして「お大尽(おだいじん)」として、江戸中の人々の評判となったそうだ。

 さて、この紀伊国屋文左衛門 と張り合ったのが、同じく材木商の、奈良茂こと奈良屋茂左衛門。
 この人も、ずいぶんと派手な遊びをしたという。

 こんな話が残っている。
 ある時、奈良茂は、お気に入りの花魁(おいらん)に、そばを二枚届けさせた。
 一緒にいた友人が、
 「おいおい、二枚だけということはないだろう。
  よし、俺が、この郭中の人に、そばを振るまってやるよ。」
 そう言って、そば屋にそばを注文した。

 ところが、そば屋は売り切れだという。
 そこで、他のそば屋をあたって見るが、
 どこも、そばはもう無いという。

 実は奈良茂、周りのそば屋のそばをすべて買い取り、たった二枚だけを、花魁に届けたのだ。
 つまり、その日、江戸でそばを食べられたのは、その花魁だけ、、、、、、ということをしたんだね。

 吉原は、江戸にそばを広まらせた、大切な場所の一つだったそうだ。
 江戸で、はじめて「そば屋」が出来たのも、この吉原の中なのだそうだ。
 値段はべらぼうに高かったが、新しいもの好きの人々に受けたらしい。

 その後、花魁の出世の行事などに、そばを振る舞う習慣ができたりして、江戸っ子の中にそばがしみ込んでいったわけだ。

 さて、吉原の三浦屋というところに、几帳(きちょう)という花魁がいたそうだ。
 この花魁、めっぽうそば好き。
 そうして、この几帳のおかげで、江戸のそば汁は辛くなったとか。

 この花魁、なかなか我がまま、いや侠気のあった人だったそうだ。
 店のものが、
 「花魁、永田町の岸田様のお座敷でお呼びです。」
 と迎えに来ても、
 「あの人は、イヤでありんす。」
 と、自分の目に叶う客でないと、断ってしまったそうだ。

 それでも、気に入った客には、いろいろと世話を焼くので、とても人気が高かったとか。
 たいへんなそば好きで、ちょっと間があると、すぐ、そばを手繰っていたという。
 客がいろいろと贈り物をしようとすると、着物以外はそばを贈ってくれと頼んだそうだ。

 そうして、贈られたそばは、店の他の女性達や、働く下女下男にまで振る舞ったという。
 時には、身銭を払って、同じように、そばを振る舞うこともあったとか。

 年季明けの几帳の支払いは、半分はそば屋へのものだったそうだ。
 こういう気っぷの良さは、「はり」があるといって、「いき」とともに江戸っ子に好まれたとか。

 さて、この花魁の几帳。
 そばを食べる時には、辛い汁を好んだのだそうだ。

 折しも、関東で作られるようになった醤油が、江戸に広く出回るようになった時代らしい。
 それまでの江戸では、「下りもの」と呼ばれていた、関西から運ばれてくる醤油が上物とされていたという。

 ところが几帳は、関西の醤油で作った汁を好まなかった。
 そして、
 「そばを食べるには、辛い汁に限る。」
 といって、関東の醤油で作った江戸汁を使った。
 なにしろ、名の通った花魁が言うことなので、それが江戸っ子の中にも広まっていったようだ。

 かくして、そのころの江戸では、辛い汁のことを、几帳の名を取って「几帳汁」とよんだそうだ。

 この人気の花魁を身請けしたのは、最初に紹介した紀伊国屋文左衛門との話。

 文左衛門は後年になって事業に失敗し、最後は質素な暮らしの中にいたという。
 几帳ははたして、好きなそばを食べていられたのかは、わからないのだ。

 今でも東京の老舗のそば屋の汁は、かなり辛めだ。
 そんな辛い汁に当たった時には、かって「はり」のある花魁がいたことを、思い出してみたりしてみてはいかが。

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