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そばに年貢だなんて、そんな杓子定規な、、、。(役にたたないそば屋の話10)

 今回は時代劇です。
 みなさんも江戸時代を
 懐かしく思い出しながらお読み下さい。

 家康が江戸幕府を開いて百数十年。
 信州のとある天領(幕府の直轄地)に
 一人の旗本が、代官として赴任してきた。
 
 その代官は、江戸幕府の誇るエリート中のエリート。
 重鎮の間では将来を嘱望される存在。
 その名を「杓子定規(しゃくしじょうぎ)」と呼ぶ。
 
 ちゃんちゃんちゃん。

 さて、地元の百姓たちは、
 びくびくしながら新しい代官を迎えた。

 なにしろ、代官のさじ加減一つで、
 自分達の暮らしぶりが変わってしまう。

 この前の代官なんか、ひどいもので、何をするにも袖の下。
 私腹を肥やし、自分の腹も肥やし、
 正月の餅をつまらせて逝った時には、
 思わず泣いて喜んだ百姓ども。

 今度の代官様は、どんなかやぁ、
 と挨拶代わりに噂する。

 さてさて、たまたま豊作だったこの年。
 いつもの通り、代官屋敷に納められた年貢米。
 これを、くだんの新代官、定規は大きな升できっちり計量。
 余分なものは受け取れないと、百姓どもに返す米あり。

 これを聞いて喜ぶ領地の民だった。
 「いい代官様で良かった。」
 
 しかし。

 貧乏人にも食べ物を与え、人望の厚かったある庄屋。
 自宅に余分な米を隠していたとのことで、
 家財没収、追放処分になってしまう。
 たまたま、預かった米をしまっておいただけなのに。

 これで、おやおやと思いはじめた民、百姓。

 祭りのために用意しておいた酒の量を、
 これまたしっかりと升で計り、
 参加する人数に比べ多すぎると、余分な酒を没収してしまった。

 あ〜あ、がっかりした農民たち。
 
 代官、「杓子定規」の脇には、いつも
 分厚い「魔入亜流(まにゅある)」という書類が置いてあった。
 その書類どおりに動くのが、
 この新代官の信条なのだ。

 ぺんぺんぺん。

 この定規が、年貢の台帳を調べていると、
 なんと、人が結構いるのに、
 米の一粒も納めていない村があるではないか。

 これはいかん、今までの者は何をやっていたのだ。
 早速取り立てにいくぞ。

 ということで出かけたのが「山だけ村」。

 乗って行ったやせ馬が、あまりの急坂にばててしまい、
 ふうふういいながら、やっとたどり着いたのが、
 「山だけ村」の庄屋、「崖淵建ッタエモン」の家。

 「これ、建ッタエモン。お前の村では、米の一粒も、
 将軍様に納めていないぞ。これはどういうことか。」
 なかなか呼吸が収まらない定規が問えば、
 「はい、代官様。ここは、このような山の上ゆえ、
 米は育たないのであります。」
 と答える建ッタエモン。

 「米が出来ないだと。それにしては、この辺の百姓は
 皆、よい顔つやをしているではないか。さては、
 隠し米をしているのではあるまいな。」

 といって始まった家捜し。
 といっても、急な斜面に建てられた掘っ建て小屋のような家。
 一目見れば、何があるのかすぐ解る。

 「これ、これ、このコモがかかっているのは何じゃ。」
 「はい、これは、この部落の者が冬を越すための食べ物で、、。」
 「なに、冬を越すための食べ物とな。」

 定規がぎらりと抜いた腰の刀。
 建ッタエモンの鼻面に突き付けて言う。
 「よいか、ここから米が出てきたら、お前の首はないものと思え。」

 そう言ってコモに向かって一太刀を浴びせる。
 ザザーっとこぼれ落ちてくるのは、米ならぬ黒い粒。

 「こ、これはなんじゃ。」
 不思議そうに尋ねる定規に、建ッタエモンは冷静に答える。
 「はい、これは蕎麦(そば)の実でございます。」
 「なに、蕎麦とな。」

 これから「山だけ村の一番長い夜」が始まる。

 どうなることやらと集まってきた村人の心配顔の真ん中で、
 定規は、分厚い書類、「魔入亜流」を調べまくる。
 暗くなり、建ッタエモンのさし出す明かりの中で、
 一字も漏らすまいと「蕎麦」の字を探す。
 誰もが、うつらうつらしていても、
 定規だけは真剣だ。

 「ええい、ここには「蕎麦」の年貢の取り立て方は書かれておぬ。
 江戸に問い合わせるので、追って沙汰する。」

 定規がそう言って、「山だけ村」を去ったのは、
 もうすっかり夜が明けた頃だった。

 約半月後、定規は建ッタエモンを代官屋敷に呼び出した。
 その日、江戸に問い合わせていた手紙の返事が届いたのだ。

 建ッタエモンにとっては、気が気ではない。
 ほかに食べ物もとれない、厳しい山の中の暮らし。
 蕎麦が年貢に取られるようになれば、いったい何を食べて行けばいいのだ。

 そんな建ッタエモンの前に座った杓子定規は、
 盆に置かれた書状を開くと、黙って読みはじめた。

 ふと、どうしたことか、読んでいる定規の顔が真っ赤になっている。
 そして、「うっ。」と言ったまま、押し黙ってしまった。

 思わず、心配そうに定規を見上げる建ッタエモン。
 いったい何が書いてあるのだろう。
 建ッタエモンにとって、地球が三回ぐらい生まれ変わったような、
 長い長い沈黙。

 やがて、顔色が戻ってきた定規が口を開いた。
 
 「蕎麦のことは、しばらく今まで通りにしておく。
  これからも、勤勉に、増産に励むようにとのことじゃ。」

 これで、喜んだのは建ッタエモン。
 村に帰ると、皆に伝えて、「そばきり」を作って祝ったそうだ。
 その後、「山だけ村」の人たちは、厳しい自然の中でも、
 しっかりと、したたかに暮らしていったのだった。

 杓子定規は、その後すぐに江戸に呼び戻され、
 二度と歴史の中に名を残すことはなかった。
 しかし、たくさんの子孫を残し、その血を引くものたちは、
 現在でも、社会のある一部にかたまって生活している、
 と言う噂だ。

 ちなみに、この時、定規の受けっ取った手紙は、
 「山だけ村」の村宝として、大切に保管されている。
 そこにはこう書かれている。

 「蕎麦のことなど放っておけ、この石頭!」
 
 蕎麦は救荒作物として、つまり、飢饉の対策として作られることが
 多かったので、幕府も手を出さなかったのだろう。
 だから、江戸時代に、どのくらい蕎麦が作られたのか、
 そういう資料は残っていないのだそうだ。

 作っても、食べても年貢(税金)を取られる今の世の中って
 江戸時代よりひどいのかもしれない。

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