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戦争の論理と倫理〜キリスト教の伝統

今回の記事は、キリスト教の信者にとっても、あまりピンと来ないところもあるでしょうが、ちょっと“倫理神学”的な話題です。
宗教団体は、平和や安寧、自制と謙遜を訴えるようなものだと思われると思うのですが、キリスト教の2000年の歴史の中では、実際、世界・社会の中で起きる戦争や紛争に対し、「どういう条件ならその『暴力』は正当化されるか」という基準が考えられてきました。「正戦論」と呼ばれています(その内容は、一番↓に)。
これが近年、教会の中ですこぶる評判が悪いのです。「戦争に、誤った戦争も、正しい戦争もない」「正戦論はもう『死んだ』理論だ」と、よく言われます。英語だとJust War Theory といいますが、このJust(もとのラテン語だとius)を「正しい」と読むのがいけないのでは?とわたしは思うのですが、あくまで「正義とされる、正当化されるための基準」という意味がもともと、のはずです(ラテン語に詳しい方はご意見あるでしょう)。

(「『兄弟の皆さん』よりよい手段は可能」タブレット、2020年10月8日)

この記事にもあるように、2020年に教皇フランシスコが発表した、社会正義に関する回勅『兄弟の皆さん』258項でも、「『正戦』の可能性について語るべく、過去数世紀の間に合理的に練られた基準を、今日支持することは極めて困難です。二度と戦争をしてはなりません」と述べています。
「二度と戦争をしてはなりません」に反対する人はなかなかいないと思いますが、その前の、「合理的に練られた基準」=正戦論は、今日支持することが本当に困難なのでしょうか?

(「武器を手にするのが正当なとき」タブレット、2021年1月14日)

続けて出された上の『タブレット』誌の記事では、この回勅中の「正戦論」の取り扱いについて、もう少しニュアンスのある解説がなされています。米サインディエゴのマケロイ司教の解説では、教皇は正戦論を枠組みを捨てようとしているが、それに代わる新しい理論はまだ現れていないことに言及していますし、著者のウィンライトも、教皇は「極めて困難」と言っていて、「不可能」とは言っていないことに着目しています。
本記事中、教皇ヨハネ二十三世が1963年の『地上に平和』で正戦論以外の考え方を示唆し、第二バチカン公会議の『現代世界憲章』(1965年)でも戦争についての新たな評価基準を呼びかけ、2016年の教皇庁正義と平和評議会の文書では、「正戦論」は戦争予防や停止よりも、是認するために用いられてきたため、もはやこれを使用し、教えることを教会や止めるべきだ、と訴えたことも紹介され、これらは確かに現代の教会の戦争に関する倫理における発展です。
そうした歴史と同時に、同回勅258項を注意深く読むことが勧められています。この項では、正当化できる防衛基準について、「倫理的正当性の厳格な条件」を基準とすることが書かれていています。これは『カトリック教会のカテキズム』からの引用で、その基準とは「正戦論」なのです。261項では、「暴力の犠牲者」の声に耳を傾ける重要性が語られ、248項では「迫害、人身売買、ジェノサイド……」といった世界各地での不正義を忘れないようにと訴えます。だとすれば、ルワンダやシリアといった、近年のジェノサイドが起きた際、「自分たちに代わって武力介入してほしい」という被害者たちの緊急の呼びかけに、わたしたちは耳を傾けなければならないでしょう。さらに教皇は203項で、異なる見方の人同士の対話により相手の正当性を受け入れることが進歩につながることも強調しています。
自ら軍隊経験もある倫理神学者のウィンライトは、自らが「正しくない戦争」に送られたくないと考え、退役するに至る際、正戦論が助けになったと語っています。また、戦争だけでなく、米国で問題になっている警察の過剰防衛の判断にも、正戦論は適用可能と述べています。とても賛成です。

(「ウクライナ 正戦と正当化できる防衛」ラクロワ、2022年3月12日)

そこで、ウクライナの状況を受けて、正戦論ともかかわる書かれた最近の記事が上です。連日悲惨な攻撃が報道される中、「暴力では暴力を止められない、ウクライナは反撃すべきではない」といった論調をついぞ聞いたことがありません。「正戦論は死んだ」派であれば、ガンジーのような絶対平和主義を貫く以外に手はなく、それは教会文書が要請していることではないはずです。
記事では、同じく258項の、「正戦論を支持することは極めて困難」ではあるが「不可能」とは言っていないことが言及され、暴力が現前にある状況では、正戦論は適用可能であり、自衛は国際法でも認められる行為、さらに今回の戦争はロシア側から一方的に仕掛けられたことも明らか、と、ウクライナの反撃とそこへの国際支援への正戦論の適用の正当性が説かれます。
面白いたとえがあり、もし「よいサマリア人」が数分前に通りかかっていたら、暴漢に襲われている場面に遭遇し、そのまま見過ごすか、介入するか、と問うています。危険にさらされている人を助けない、という選択は、聖書的でもないでしょう。「非暴力は絶対化できない」と結論づけています。わたしは、非暴力は他者には強要できない霊性の問題と考えています。

さて、「ウクライナは自衛の戦争だから許される」というのは、議論として弱いと思います。というのも、「自衛は許される」は、もっとも危険な言説だということは歴史が証明しているからです。日中戦争をはじめ、世界中の多くの戦争は「自衛」の名のもとに始まっています。恐らく今回、ロシア大統領も開戦前に同様の発言をしたのではないでしょうか。だから少なくとも教会は、より厳密に、正戦論にもとづく戦闘開始の可否を判断し、世に訴えなければならないと、多くの倫理神学者が感じているところだと思います。
実際、ウクライナの大統領はNATOや米国に「飛行禁止区域」を要請していて、各国は軍事外交的に判断してこれを断っていると思いますが、教会の立場からだと、正戦論に基づいて判断することになると思います。ウクライナから軍事物資の支援を日本政府が求められたら、教会はどんな意見を表明するでしょうか。結果はともあれ、考察する基準が必要です。わたしの記憶が正しければ、東チモールが独立を目指したとき、1999年、インドネシア軍が侵攻してきて、その際、同地を支援してきた日本の教会は国連軍の即時派遣を訴えました。一方的な暴力で罪なき被害者が存在する以上、暴力も含めた手段で介入するのは(個人の正当防衛というよりも)為政者の責務、というのは正戦論の基本的な考え方です。
戦争を始めるときも、反対するときも、教会が世の空気に流されて同調しては、「預言者的」にはなれないと自省するものです。

正戦論の基準……

戦争開始を正当化する条件(jus ad bellum)
・正当な理由
・正当な権威
・正しい意図
・最後の手段
・比較優位な正義
・均衡性
・合理的成功期待
戦時下暴力の条件(jus in bello)
・差別性
・均衡性

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