見出し画像

それでも人との関わりを持ち続けたい

2020年に入ってから辻仁成さんのブログ拝読が日課だ。フランスのこと、料理のこと、家族のこと、辻さんの周りにいる人たちのこと、作家なだけあって彼の文章は読みやすく、親しみやすく、優しい。彼の生活は小説の中のワンシーンのようで、いつも彼の生活が目に浮かぶ。文章の合間に挟まれている写真たちがさらに想像力を刺激してくる。彼の家に行ったことも、彼の仲間たちに会ったこともないけれど、なんとなく私もその中に加わっているような気になる。友達の少ない私にとって、彼のブログを読む時間は癒しだ。

彼のブログに出てくる人たちはどこか可愛くて魅力的で強い人たちだ。中でも哲学者アドリアンは強烈だ。風貌は怖いおじいちゃん。彼の行動は彼の哲学に基づいている。ちゃんと自分で考えて自分の目で見に行って自分で経験する人なのだ。辻さんは彼と話す事が好きなのだそう。もちろん言語の壁はあるだろうと思う。辻さんにとって会話には言葉の意味だけではなく、その人の雰囲気や醸し出される感情なども含まれているし、理解できないところを補填しあって妄想しあって成り立っているものなので、それでいいのだと言う。

私もそんな風に会話を楽しめる隣人がいたらいいのになあと最近強く思う。

もともと人間関係を構築するのが苦手で、今でも人との距離感の取り方がまるでわからない。すごく仲が良いか、挨拶程度の知り合いかというかなり極端な人間関係しか同時に把握し、進行させることができない。今は、2年ほど付き合っている恋人と連絡を取っているのが唯一の家族以外の人との関わりだ。

原因としては仲がいい人とは一生同じ関係性で一生仲良しで居られると思ってしまうことだ。少しでも相手がいつもと違う反応をしたり、離れていく素振りを見せたものなら、私は何もかも投げ出してその人と話していたい、一緒にいたいと思ってしまう。その人の変化が受け入れられず、私は過去の話を持ち出したり、過去にした楽しいことをその人にしようと呼びかけたりする。しかし、そのうち、その人たちは彼ら彼女らの人生を生きていく。私は、彼らの変化が受け入れられず、それを「私自身は受け入れられなかったんだ」と勘違いし、その人との関係性を断ち切ってしまう。今までそうして何人もの友達を失ってきた。そのせいか、昔の友達に連絡を取っても、いざ電話しよう、いざ会おうという話になると既読無視されてしまうことがほとんどだ。

最近、恋人とも上手くいかない。恋人が変化していること、それに加えて自分が変化していることにも気づいてしまってどうしていいかわからなくなり、関係性を断ち切ろうとしてしまったり、いきなり寂しくなって何も用事がないのに電話しようと言い出して、「面白い話をしてくれないのが気に食わない」と不機嫌になったりしてしまった。

人間関係は私には向いていないのかな、と思う。誰ともつながれない自分の状況になれればこんなことは苦痛でなくなるのかなあと思う。それでも、1日に何度も人と話したい、他の人の意見を聞いてみたいと思ってしまう。

私が成長して、他人の意見に流されず、自分の生活や思考を膨らませていけるようになった時、人間関係の構築という選択肢が与えられるのかなあとぼんやり思う。だから、恋人に別れようと切り出した自分は間違ってないのかもなあとも考える。

けれど、自分が完全に成長しきった時とは一体いつだろう?自分が成長するためにすることは、他者から逃げることなのか?他者から逃げて、自分一人で生活すれば、他者の意見に流されなくなるのか?自分一人だけで生活できるようになっても、また他者とのつながりを持ってしまったら後戻りしてしまうだけではないのか?一生他者との関わりと絶って生きるしかないのか?

そんなの切なすぎる。2人の人間から生まれてきたので、生まれた時は最低でも3人いたはずなのに、結局1人になってしまうなんて。

だから、私は頑張って他者との人間関係の構築にトライし続けることにした。自分自身も変化するように相手も変化するということを理解する方が一人になるよりずっと楽チンだ。自分に自信を持つことも人の意見に流されないようにするための一つの方法かもしれない。私にとって人との関係性を続けることは失敗の確率も多いが、できることも多い。

友達は少ない。人間関係も苦手。それでも私は人との関わりを持つことをあきらめない。