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それぞれの「当たり前」

唐突だが、私の祖父は漁師であった。酒が好きで、銭湯が好きで、子供が好きだった。母からすると、絶対に逆らえない頑固親父だったらしいが、子供の私にとっては唯一大人扱いしてくれる大人であった。将棋を教えてくれて、祖父とよく対局した。今考えれば、将棋を教えてくれたのは、祖父の暇つぶし相手を作るためだったのではないかと思うくらいボロクソに負かされた。人数が多い時はチーム戦なんかもしたりした。私の一手が気にくわないと、こたつの下で足の親指をよくつねられたものだ。

祖父は、祖母にとても厳しかった。食事の時、祖父がお茶碗一杯を食べ終わるまで、祖母は一度も食卓に座ることができなかった。祖父が次々とあれを持ってこいそれを持ってこいと頼むからである。私の母がそれを見かねて「お母さん、もう座ったら。」と言っても、祖母はせかせかと働き、祖父は焼酎の入ったコップを箸でぐるぐると搔きまわし続けるだけだ。祖父は完全なる亭主関白であった。

なぜ、こんなことを今日思い出したかというと、母と性に関して話し合ったからである。私が大学の授業で性差別について学んでおり、それをなんとなく母に聞いてみたのがきっかけだった。職業によっては女性がつきにくい職業、男性がつきにくい職業があること。女性の方がお給料が低い傾向があること。セクハラなどは女性が被害者になることが多いこと…などなど。私は日本社会は性差別をしっかりと問題として捉えており、これからもっと変わっていくのではないかと思っていると話した。ぶっちゃけたことを言えば、これから女だろうが男だろうが関係のない世界がくるのかもしれないなあなんて頭の片隅で思っているほどだった。すると、母は女性や男性で果たす役割が違うということを重要視している人もいる、と話し始めた。

祖父は神棚を触るのは男性でなければならないことや女性は船に乗ってはいけないなど、性別に関してはかなり敏感であったらしい。母から言わせれば、「女性がいなくても神棚のあるお家は数え切れないほど存在するのに。」らしいが、祖父は死ぬまで神棚を掃除し、毎日ご飯をあげ続けた。母は、その理由を、職業と強く関連していると分析した。

漁師という職業は命がけだ。毎朝漁に出て、天気や波の様子を見て、重い網を引き上げる。海の天気は変わりやすい。急に大きい波が来ることもある。魚を引き上げる網だって引き込まれて仕舞えば体のどこかを切断することになりかねない。常に危険と隣り合わせの仕事だ。そのため、縁起を担いで日々仕事に励むことは祖父にとって重要な儀式だったのではないかと母は言う。

そう言われると、否定できない。古臭いしきたりもある人にとっては重要な意味を持つのだ。

現代の日本に住む大学生の私は、「死なない」ことが当たり前の世界に生きている。死んだら大事件だ。でも、職業によっては死なないことの方がありがたい、そして死なないために何にでもすがりたくなるのもわからなくない。世界中の例を見てみると、職業だけでなく、様々な状況によって死なないことが当たり前ではない世界が広がっている。その人たちにとって、性別で役割を分けて、儀式的なものとして確立することが心のよりどころなのだとしたら、性差別をなくそうなんて声を軽々しくあげていいものだろうか?

今回は性差別を一例の取り上げたが、あらゆることが当たり前の違いと当たり前の押し付け合いによって起こる争いなのだとひしひしと感じる。

私はと言えば、女だろうが男だろうがなんら関係ないと思っている。というか、日常で男だから、女だからということを考えることは殆どない。人間として生きている。祖父が生きていたらなんと言うだろうか?祖父が好きだったように私も酒が好きで、大酒飲みなので飲みながら語り合いたいと思うが、天国に行くにはまだ早すぎるようだ。もう少し私の人生を生きてからじっくりと祖父と語り合いたい。