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鳥は飛ばねばならぬ、人は生きねばならぬ

鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒涛の海を飛びゆく鳥のように
混沌の世を生きねばならぬ
鳥は本能的に暗黒を突破すれば光明の島に着くことを知っている
そのように人も
一寸先は闇ではなく光であることを知らねばならぬ

特に理由もないのに心の中に残っている言葉はないだろうか?先ほど紹介した詩は、私の人生においてそれほど大事でもないが、心にずっと残っている言葉の1つだ。もっと詳しく言えばこの詩そのものが好きで一言一句覚えているわけではない。この詩が私に思い浮かべさせた情景…1匹のかもめが水平線に沈む夕日を目指して右に左に揺れながら飛んでいく…そんな映像がずっと心に残っている。
この詩に初めて出会ったのは2017年1月だ。近所の寺院の掲示板に掲示されていたこの詩を父親がFacebookでシェアしていたのをたまたま見つけた。2017年1月といえば、私は演劇に夢中だった時期で、家にもろくに帰省せず、大学に入って初めて任された演劇の役をこなすのに身も心も捧げていた。演劇が恋人だから人間の恋人はいらない。演劇するために金持ちの男と結婚しないとならないから、大学を卒業したらすぐにお見合いをする。そんな人生設計をしていた頃だ。
それから、3年ちょっとが経った。私はちょっとした挫折から演劇に対しての情熱をすっかり失い、一緒に歩いていたと思っていた同級生からは1歩も2歩も遅れた。就職活動を終えた彼らを横目に見ながらあと2年も大学に在学しなければならないという現実が冷たい。2年前から恋人もいる。結婚を前提に付き合っている。彼に支えられるだけではなく、私も彼を支えたいと思うから就職するんだろうなあと漠然と思う。
それでも、2017年に父のFacebookで見つけた言葉は一定の頻度で私の脳裏にちらついてくる。毛筆で書かれた癖字と、前述した映像がチカチカしながら頭の中を漂う。そして、今、またこの詩が漂い始めた。

この詩を思い出すことのほかに、私がずっと続けていることがある。それは自分について悩み続けることだ。ほぼ毎日私の頭の中は私についての悩みで溢れている。何がしたい、何をしないといけない、誰と一緒にいたい、誰と一緒にいなくちゃいけない、誰が好き、誰が嫌い…。それでも悩み続けてしまう。

しがらみから逃げて、生きてきたと思っていた。それなのに、いつの間にか、人生に付きまとってくるのはこの詩と悩みぐらいになった。人生とは流動的なもので、変わらないものといえば自分くらいだ。

この詩は悩みに対する一筋の希望なのだと私は今、思っている。悩みとは、現状に対する光を求める心だ。現状が暗ければ暗いほど、光はまぶしく、時に痛みを感じる。それでも、この言葉はいつも光を求めることを思い出させてくれる。この言葉は私の人生にとってどうでもよかったのではない。向き合ってこなかったのだ。ずっと悩んできた。しかし、私は悩みの先の光に向き合うべきだったのだ。

このブログでは、私が悩みながらもどうにか見つけた光について書いていこうと思う。毎日同じ太陽が、違う光を湛えながら私たちを照らす。そんなさまざまな光を捉えられるように。