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アーシュラ・K・ル=グウィン『ファンタジーと言葉』にて

この書物はエッセイ集ですが、興味深い内容が潜んでいました。

私たちは、書き言葉が本格的に普及する前の、話し言葉を生きる時代の言語感覚を、すっかり忘れています。声によって語られるコミュニケーションの現場では、無意識に、身体的な同調が果たされているようです。

同調化は、話される言葉に関してはどのように機能するだろうか。ウィリアム・コンドンのしたすばらしい実験は、次のことを映像で明らかにした。しゃべっている時、わたしたちの体全体はたくさんの小さな動きをしており、それによって、体の動きを話のリズムと調和させる基本的な親リズムを確立しているのである。この拍動がないと、話し言葉は理解できなくなる。「リズムは行動を構成している基本的な側面の一つである」とコンドンは述べている。行動するためには拍動がなければならないのだ。
コンドンは、ある話し手に耳を傾けている人々を撮影した。コンドンの写した映像は、聞き手が話し手のしているのとほとんど同じ微小な唇と顔の動きを、ほとんど同時に――五〇分の一秒後にしていることを示している。彼らは同じ拍動に固定されているのだ。「コミュニケーションはダンスのようなもので、複雑な動きを全員が共有しており、その動きは一見しただけではわからないさまざまな次元に広がっている」とコンドンは言う。
耳を傾けることは反応ではなく、結びつくことである。会話や物語に耳を傾けているときのわたしたちは、応答しているというより参加している――行われている行為の一部となっているのである。

――pp.206-207

この引用がある長いエッセイの「語ることは耳傾けること」には、W-J・オング『声の文化と文字の文化』からの引用も出てきます。

話し言葉の会話は、一回限りの出来事であり、その時空と身体が同調して、私たちは、無意識に、言語共同体との絆を深めていたのです。

以上、言語学的制約から自由になるために。