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S・K・ランガー『シンボルの哲学』を読む

この書物には、第Ⅴ章「言語」があり、それを記事にしようかと思っていたのだが、8か月たっても気が乗らないので、それよりも面白く感じる第Ⅷ章「音楽における意義について」を取り出しておきます。

ほとんどの演奏家が自分の作曲した曲を弾いたり、時に即興演奏をしていた時代には、音楽についてのこの説明はごく自然なものであった。ルソー、マルプルク、マテソン、C・Ph・E・バッハたちはみな(バッハの言葉で言うと)「音楽家は自分自身が感動する以外のやり方で人々を動かすことができないから、聴衆に引き起こしたいと思う情感のすべてを自分自身に誘発する能力を持たねばならない。彼は自分の感情を彼らに伝達し、こうして直ちに彼らを動かし、共感による情感を起こすのである」。――p.400

この著者は、音楽のあり方を、哲学的に語ろうとしています。

もし音楽になんらかの有意義性があるとすれば、それは兆候シンプトン的なものではなく意味論的なものである。明らかにその「意味」は情感を引き起こす刺激でも、また情感を伝える信号でもない。もし音楽が情感的な内容を持つとすれば、その「持つ」は言語が概念的な内容を「持つ」のと同じく、シンボル的に持つのである。音楽は通常情感に由来するのではなく、また情感を惹き起こすためでもない。条件付きではあるが強いて言えば、情感についてのものであるとはいえよう。音楽は感情の原因でも、これを癒すものでもなく、その論理的な表現なのである。ただこの役割についても音楽には特別な働き方をするので言語とは共約不可能であり、イメージや身振りや祭儀などの現示的なシンボルとすら、共約でない。――p.405

もちろん、言語化は分節化であり、真にわかったことにはならないが。

言語に当てはまることは音楽にとっても本質的である。作曲家が何を表現すべきかに心を定めて工夫されたような音楽はおそらく音楽にならないであろう。それは制限つきの楽句であって、人工言語のようなものであり、それ以下である。なぜなら最高の状態における音楽は明らかに一つのシンボル形式であるが、あくまで成就されない未完成のシンボルであるのだから。分節化こそがその命であって、言明ではない。表現性であって表現ではない。変わらない内容を要求するという意味の実際上の機能は達成されない。というのは可能な意味の中から、これであってそれではない、という振り分けが明示的になされることは決してないからである。――p.440

ところで、最近の、コンピュータで作曲された、人が演奏できない音楽の、身体性は、どうなっているのだろう。健康に良いとは思えないのだが。

以上、言語学的制約から自由になるために。