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モーテン・H・クリスチャンセン/ニック・チェイター『言語はこうして生まれる』にて

言語学の初心者は、この書物から読み出しても良いと思います。いまや初心者の大半は、チョムスキーの「普遍文法」やピンカーの「言語本能」に触れなくても、十分に満足できるのではないでしょうか。

まずは、「訳者あとがき」から取り出したい。

 二十世紀に出てきた画期的な概念が、ノーム・チョムスキーの提唱した「普遍文法」だった。人間のあらゆる言語は単一の諸原則――普遍文法――にのっとっていて、世界中のさまざまな言語はすべて普遍文法のバリエーションであり、人間の子供は生まれながらにしてこの普遍文法を知っている、という考えである。チョムスキーのこの考え方は、言語学研究にとてつもない影響力をおよぼした。
 その後、スティーヴン・ピンカーがこのチョムスキーの普遍文法を、進化論の観点から説明した。人間の言語能力はひとつの生物学的適応であり、自然淘汰の結果として人間の遺伝子に組み込まれた、いわば「言語本能」であるという説だ。この考えもまた言語学研究に深く影響を与え、スタンダードとして定着していった。
 言語学におけるこのような歴史を経て、本書の著者二人が学生だった時分には、このチョムスキーとピンカーを代表とする言語生得説がすでに主流を占めていた。著者二人は、これに対してどうにも懐疑的な思いがあったという。本書の序章から引用すれば、彼らは「言語の規則的な性質がもっと根本的な原理の副作用として生じている可能性を探究したかった」。
 そしてあるとき、ふと、あるアイデアが二人の頭にひらめいた。キーワードは「ジェスチャーゲーム」だ。自分の言いたいことを即興の身ぶり手ぶりで相手に伝え、こちらの意図をどうにか正しく汲み取ってもらう遊び――これこそが言語の起源ではないかと思いついたのである。相手となんとか意思を通わせたい、通わせねばならないというシンプルな願望と必要性がまずあって、それをかなえるために「即興」でその場しのぎの伝達手段を考えだして、実践していくうちに、その手段が習慣化して、いつしか一定のコミュニケーション体系にまとまっていく。そして、このコミュニケーションを支えているのは脳や遺伝子に内蔵された生得的な資質ではなく、クリエイティブな即興の連続を通じて培われた互いの共通知識を基盤とする、あくまでも文化的な資質である。
 この視点で言語を見れば、いまだ決着していないさまざまな疑問にも、新たな説明をつけられるのではないか――という着想のもとに、著者二人が長年かけて検討し、実地に研究し、蓄積してきた言語のさまざまな面についての考えが、本書で明瞭かつ軽快に綴られていく。

――pp.322-323 訳者あとがき

そして、言語のあり方を、「はさみ」に喩える本文。

言語は脳によって形成されるコミュニケーションツールで、ちょうど熊手やのこぎりや鋤のような物理的な道具が、人間の手や足や胴体になじむよう文化的進化によって申し分なく形成されてきたのと同じである。現代のはさみがいかにみごとに人間の手の形状と切る役目に適応しているかを考えてみたらいい(だからはさみは用途別に多種多様な形態をとる。キッチンばさみ、外科用はさみ、爪切りはさみ、等々)。はさみは何百年という時間のあいだに、文化的進化によって人間の手の構造にあわせた使いやすい形状に整えられ、右利き用と左利き用とで異なる形状になるぐらいまで進化した。実際、左利きの同居人と暮らしている右利きの著者(モーテン)は、左利き用のはさみが右利きの人間にとってはいかに使いにくいかを痛感している。

――p.204 第六章「互いの足跡をたどる」

私のイメージを併せると、右利き用のはさみが英語(イザナギの思考)で、左利き用のはさみは日本語(イザナミの思考)みたいな感じです。

以上、言語学的制約から自由になるために。