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スピリチュアルに『言語存在論』を読む

五次元の意識と常につながっている人は、言語の歪みに囚われず、言語学的制約を超えられます。しかし、私のように、五次元とはたまにしかつながらない人は、言語の歪みにいちいちつまずいてしまう。

そこで、次の書物を見つけました。

野間秀樹『言語存在論』は、スピリチュアルな見解は無視して、しっかりと両足を大地につけて、「言語はいかに在るのか」と問うています。その内容から言語の在り方を三つ取り上げたい。

一つ目は、言語場げんごばの定義です。

言語が実際に行われる場を、〈言語場〉と呼ぶ
即ち、言語場とは、ことばの発し手=発話者や受け手=受話者によって言語が実践され、言語が実現する場である。言語が実際に行われる時空間と言ってもよい。

―― p.19 第1章

言葉を言葉として認める人がいない時空間は言語場ではありません。従って例えば、人類を置き去りにして、言語場だけがアセンションすることはありません。時空に制約される言語場を人間が創作しているのです。

ここで違和感がある人は、言語意識が乖離しているのかもしれません。

二つ目は、言語場で実現する言語の存在様式です。

〈話されたことば〉は聴覚的な媒体である音声によって対象化される
〈話されたことば〉はオトの世界に存在する
〈書かれたことば〉は視覚的な媒体である文字によって対象化される
〈書かれたことば〉はヒカリの世界に存在する

音のないところに〈話されたことば〉はなく、光のないところに〈書かれたことば〉はない。文字はことばを、音の世界から光の世界に解き放った。
そして世界が異なり、媒体が異なるこの二つの実現形態こそ、言語の二つの主要な存在の在り方、存在様式である。音の世界と光の世界をことばとして結ぶのは、言うまでもなく、人の存在である。

―― p.40 第2章

〈書かれたことば〉の中に〈話されたことば〉が持ち込まれることによって
〈知〉の世界が開けたが、人は、そこで暮らすうちに「言葉は意味を持つ」という思い込みを抱えてしまったようです。

三つ目は、ことばに即した意味についてです。

ことばは通じたり、通じなかったり、また曖昧に通じたり、
通じているのかどうかさえ、当事者にもわからなかったりする。

……言語学の教科書には「言語は意味を運ぶものである」と、書いてあることだろうことを、先に述べた。「言語が意味を運ぶ」と言えるとしても、それは少なくとも、意味が実現したときのことでしかない。――第3章p.104

―― p.104 第3章

既存の言語学では、言葉は意味を持ち運び、言葉がメッセージを伝達する、という前提で考えるが、言語存在論的には違います。

ことばは意味そのものではなく、
言語的な意味を実現し得るゲシュタルトかたちなのだ。

五次元のコミュニケーションなら「言葉がなくても意味はわかる」と言えますが、普段のコミュニケーションでは、言葉の受け手が意味を紡いでおり、発し手の意味は言葉で遮断されているのです。

だから、誤解が生じるし、言葉の多義性や曖昧性も生じるのです。

スピリチュアル系の「言葉に魂が宿る」という表現も、実際は、言葉の波動を手掛かりにして魂とつながるのであろう。

以上、言語学的制約から自由になるために。