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顔に汗してパンを食べ最後は土に帰る

賢王ソロモンが人の生涯を概観したときに『すべては空しい』とし、その一巻の書の始まりを、人生の結論から語り始めています。(伝道の書1:1)
人は生まれて子を残すほどの時間を与えられ、寿命を迎えて去ってゆくのですが、大地はその移り変わりに関わりなく不動に存在しています。
人の生涯といえば、労苦と悩みを誇るばかりです。しかし、これは誰もそう変わるものではありません。
『顔に汗してパンを食らい、最後は土に帰る』とは神の禁を犯したアダムへの処置ですが、そのような出来事など、人の現実を説明するだけの神話に過ぎないと思う人も少なくないことでしょう。
しかし、アダムとエヴァの陥った問題には「神を含むあらゆる他者とどう生きてゆくか」という重要な性質があったと言える理由があるのです。

さて、キリスト教との接触がない江戸時代に、エデンの教えに触れた日本人学者がいました。
鎖国中の日本に禁を犯して入国したイタリア人宣教師シドッティは、すぐに捕えられてしまい、残りの人生を江戸の小石川で過ごすことになります。
幕府は儒学者の新井白石にその取り調べを担当させたのですが、この学者に対してシドッティは宣教を試みます。その記録は日本側に詳細に残されており、シドッティの説得は白石に対して何の効果もなく、エデンの禁断の木の実の話などは、「一度の間違った食事のために神が代って罰を受ける必要がどこにある」と一蹴されてしまいます。

結果として白石はキリスト教を「幼児の戯言」と断じてしまいました。論理が余りにも欠けていたのです。やはり今日でもエデンの園の出来事を他愛もない伝説と見る人は多いことでしょう。
しかし、創世記には人間の最も重大な問題が指摘されていますし、それは今日ますます知ることが必要とされる事であるのです。

それでも創世記のエデンの園での禁断の果実をめぐる出来事は、やはり古代の神話のようなものなのでしょうか。実にそのような声はキリスト教徒の中からも上がっています。特に「高等批評」の学者からは、科学的に見ればまるで聖書に信頼性が無いと唱えられ、そこにキリスト教界の矛盾も見えます。

その創世記の記述はやはり神話であり、古代の稚拙で愚かな言い伝えなのであれば、聖書全体も色あせることになります。

まず、そこで考える必要があるのは、創世記もやはり古代人の伝承であるに違いなく、その当時の人が分かるように述べられているという背景は理解されたうえで価値判断されねばなりません。
創世記にしても聖書の全巻にしても、法的証書でもなければ学術論文でもないのです。しかし、それでもそれらの記述に価値ある事柄を見出すことが無いとは言い切れない事実があり、聖書が人類に与えてきた影響にそれが見えます。確かに聖書の中では、人の本質をえぐり出すかのような記述に出会うことがあり、聖書の最大の主題は、創世記での人間の始まりに於ける神との関わりが記されていることから、明らかに「人の倫理性」に関わることであると言えます。しかも、それは創世記から黙示録まで一貫していて、それは「幼児の戯言」でも「非科学的」でもありません。人間の本質を突く実に重厚な内容です。

さて、その「倫理」とは、すなわちこれです
わたしたちは他者とどのように関わって生きて行くべきか
これこそ人間最大の難問であり、これを弁えない者が永遠に生きるとすれば、その害も永遠に続くことになってしまいます。それを果たして創造の神が許すでしょうか。ですから、アダムとエヴァが神への忠節さを示さない仕方で自分たちの意向を行動で示したとき、神は彼らが『永遠の命の木の実からもとって食べることのないように』と最初の権力の表明として永遠の命への道が塞がれたことを告げています。簡潔な文ではありますが、そこに込められた意味はたいへんに重く、人の倫理性が不完全であることが人の命を短いものにしているという聖書の教えには、なるほど道理があると言えるのです。

人が生きる上での問題は、ほとんどの場合に他の人との関係の上で起ります。犯罪から戦争まで、倫理で人は害をもたらします。わたしたちの倫理性は様々なところに表れるもので、自分の身の処理にさえ生じます。たとえば病気になったりする場合でも、それはその人ひとりのことでは済みません。世話を受けたり、与えたりしなければなりませんし、わたしたちの周りには多種多様な他者との関わりが生じていて、善となることもあれば悪や害ともなり、残念ながら人は皆、度々に失敗を繰り返しながら生きているのです。

さて、他者との関わりを漢語では「倫」と呼びますが、これは人と人とが秩序をもって並ぶ様を表した文字であり、友や仲間の意味もあるそうです。この字に基く「倫理」は、人同士の関係の中で守るべき道徳、善悪の判断を表すものです。

西洋ではアリストテレスが人間の本性について「倫理的価値について認識を持つということだけが、その他の動物たちに対して人間に固有だからである」と語り、人にとっての倫理が何より際立った特性であると認めています。この哲学者はあたかもAIが人間と知を競う時代を予知するかのように、「本来の人間理性は、不定不明の人間行為の世界に中で、未知の他者と出会いながら、何を為すべきかを選び取る倫理的能力なのであり、この点からも、道具的理性の所有が本来の「人間理性」の所有とは認められない理由が明らかになるであろう」とも述べ、AIの知性と人間の知性とでは倫理を含むか否かで異なるべきことを前4世紀に見抜いています。
(「ニコマコス倫理学」Ⅲ巻 思慮について)

アリストテレスによれば、「倫理」とは人間存在の本性的なものであり、倫理的決定以外の仕事はすべて機械に置き換えてもよいものだとされます。
敷衍して考え、もしAIに倫理を任せるとすれば、人は自らの領分を犯しつつ害を為すであろう無数のAIを破壊し続けなくてはならないでしょう。それがAIを創造して所有する人間の権利ある倫理判断だからであり、AIの倫理は人の倫理の鏡像であり、やはり悪を持つからで、AIに自律的に倫理を委ねるのであれば、遠からずAIによる犯罪を予期しなければならなくなるでしょう。自立的倫理は人の特性であるべきで、AIに責任を取らせることには初めから無理があります。倫理上の責任を負うのはやはり人であり「人存在の本性的なもの」と言えましょう。ましてAIに市民権など与えるなどはまったく的外れであり、深刻な矛盾を来すことでしょう。やはり人は生まれながらに機械ではなく、説明のむずかしいながら、やはり責任を負うべき独立の倫理的存在であるのです。

そして創世記には「エデンの二本の木」の選択が登場します。つまり『善悪を知る木』と『永遠の命の木』との二つの道でありました。それは創造された『神の象り』である人が倫理に於いて、いつかは経なければならない試みであったということが出来ます。ですから、アダムとエヴァが誘惑に遭って初めて、ただ神に従順に過ごした時期を終え、「自分たちの意向」という倫理上の決定を行う存在者と成りました。そこで神は天使らに『彼らは今や善悪を知ることでは我々のひとりのように成った』と語っています。彼らは禁断の木の実を食べても食べなくても、自ら選択を行うことで倫理的存在となったことでしょう。神が人を『自らの象り』に創られたとは、独立した「自由な倫理上の行動者」としての神の写しであり、それゆえ、彼らの示す善なる愛も「真実のもの」と成り得ます。

但し、人類の始祖は不忠節な仕方で倫理の道に歩み出した以上、神との関わりを壊し、その倫理上の欠陥は、当然ながら人間同士にも影響をもたらすことになりました。
では、その結果としての人の倫理とはどのような状態にあるでしょうか。今日の世相を見ても、歴史の眺めても、この質問には良い回答はできないでしょう。人間社会には常に悪が横行してきたからであり、世界には無数の悪が海の波のように起こって静まることがありません。(イザヤ57’20-21)

一方で、神が人を存在させたと聖書通りに見れば、神は人間社会をどう見ているのでしょうか? また、人間を現在のように倫理に問題を抱えるものとして初めから在らしめたのでしょうか?

創造の神が地に人を創造したときに遡る記述は聖書の創世記にあります。
永き時代にわたって書き継がれてきた聖書は、キリストの到来を含んで、さらにはこの世の終りにまで言及しているのですが、この一連の書物を俯瞰すると、やはり大きな一つの主題が横たわっています。
それは、神による人間救済の物語であり、倫理上の事の発端から解決に至るまでの悠久の時にわたる神の行動を記しているのです。

そこで聖書巻頭の創世記の初めの数章は、その後に二千ページも続く膨大な記述の起点であり、ここを単なる神話として片づけるとすれば、以降の見事な文章の数々も、空しい真実性の土台のないものになってしまいます。
しかし、エデンの園で起った事柄の記述は、古代人の飾りの無い簡潔な言葉の中に淡々と進められていますが、人間の本質である倫理に関わる言葉に気付けるものです。では、以下にその内容を吟味してみましょう。

創造の神は、最初の人アダムを「エデン」つまり「楽しみ」と呼ばれる申し分のない環境に置きましたが、神は人を末息子のように優しく扱い、自らの創造物である動物をそれぞれアダムに見せては、彼がそれを何と名付けるかを、つまりどう評価するかと見守り、アダムが付けた通りがそれぞれの生き物の名とされていったとあります。

しかし、アダムは自分に相応しい伴を見出せずに過ごしていましたが、そこで神は『人が一人で居るのは良くない』として、やがて対となる女性エヴァをも創って娶らせます。
アダムは自分の骨肉の伴侶を得て大いに喜んだことでしょう。エデンの楽しみは大いに広がり、神は二人を祝して『生めよ増えよ、地に満ちよ』と言われます。こうして、人は一人ではなくなり、社会の基礎が据えられることとなりました。

神は地の世話をアダムに委ね、また二本の木を園の中央に植えました。
一本は『善悪を知る木』であり、もう一本は『永遠の命の木』とされます。
神は園のどの木から実を取って食べることを許しますが、『善悪を知る木』についてはその実を食べることも、近付いてもならないと命じます。その理由を『あなたがたが死ぬことのないためだ』と言われました。こうして一本の木が倫理の要となります。

しかし、この植樹は奇妙なことです。
アダムの存在を楽しんだ神であれば、人の前にわざわざ危険を置いて罠にしようとは思わないでしょう。しかも、死の危険のあるようなものを、目につくであろう園の真ん中に植えるというのはどういうことでしょうか。
これには何かしら深い理由があるに違いありません。

アダムが死にたいなどと思うわけもなく、その禁令を守っていたのは当然のことでしょう。『善悪を知る木』から食べれば死ぬと言われたアダムが、その言い付けを守っていたことはむずかしいことではなく、それは「従順」であって規則を守って自分を守ってもいたのです。

しかし、「従順」はアダムが神に「忠節」であるかどうかを示すものではありません。「忠節」つまりヘブライ語の「ヘセド」であり、「変わらぬ愛」との意味も含みます。その「忠節な愛」は誘惑に打ち勝つ「不変の愛」であるはずです。それは監視のない自由が与えられたところでのみ働くものですから、当然に全知全能の神もアダムらのプライバシーを守ります。
そして、この禁断の木がアダムに大きな試練をもたらす時がきました。彼の深く愛するエヴァが食べてしまっていたからです。

エヴァは一人で居たときに、蛇に話しかけられていたというのです。
いや、蛇というものには発声機能がありません、精々が尻尾を鳴らす種類が僅かに居るほどです。
もちろんこの誘惑を仕掛けたのは、ただの蛇ではなかったのであり、これら創世記のはじめに書かれた蛇の正体を明かして、聖書最終巻の黙示録が『初めからの蛇で悪魔、またサタンと呼ばれる者』と記し、その悪魔が蛇が話しているかのように装わせた張本人であることを暴露しているのです。(黙示録12:9)

悪魔の操るこの蛇は、禁断の木の実を食べても死なないとエヴァに請け合い、むしろ神のようになれるとも言ったというのです。(創世記3:4-5)
それを聞いたエヴァの目には、その実が食べるに良く見えるようになり、ただおいしそうだという思いから、もいで食べてしまいます。
しかし、すぐに死ぬようなこともなく、蛇の言葉をますます信じてしまったことでしょう。

その後、エヴァに禁断の実を差し出されたアダムは内心大いに驚き惑ったことでしょう。
使徒パウロは『アダムは欺かれなかったが、女はまったく欺かれて背いた』と指摘します。(テモテ第一2:14)
エヴァには悪気は無かったのでしょうけれども、その行いを通して神への忠節にはまるで無頓着であることを示しました。その無関心さがやはり神への愛の無さそのものであったというほかありません。

こうしてアダムの忠節な愛が試されるところとなり、蛇はまさに狙った通りの強烈な動揺をアダムに与えることに成功していました。つまり、神をとるか、妻をとるかという二者択一の厳しい試みです。最初からアダムの従順を崩すのは難しくとも、エヴァへの恋慕が神への忠節を曲げさせ得ると蛇は見抜いていたのでしょう。

このことは言い開きを求められたときのアダムの答えに明らかです。
『あなたがわたしと一緒に過ごすようにと与えてくださった女です、その女が木から取ってくれたので私は食べました』と言ったところに示唆されています。まるで神がエヴァを与えたのが原因であるかのように、また「一緒に過ごすようにと」神が命じたので共に禁令を破ったかのようにアダムは言うのです。(創世記3:12)

つまり、アダムとしてはエヴァと何としても共に居たいという願望があったのです。それは不自然なことではありません。しかし、その欲が神への忠節を退けさせるなら、それは夫婦愛の美談とはなりません。
アダムとエヴァが揃って悪魔の誘惑に屈すれば、もはや子孫である人類全体はひとつの『罪』に落ち込む事態に至ります。それは利己心つまり忠節な愛を捨てて我欲を選び取ることであり、そうして人間社会に利己的に振る舞う土台を据えてしまうことになります。こうして聖書に度々現れる『世の基が据えられた』との句が深い意味を持つことになります。『世』とは、この倫理不全の人間社会を言うからです。

アダムが神をさえ押し退けるのであれば、遺伝する『罪』はあらゆる他者も自分の下に押し退けようとするに違いなく、一本の木の禁令は倫理という問題の本質を突いていたと言えます。そこに悪というものが凝縮されていたとも言えるでしょう。

エデンの二本の木の選択は、倫理という命に関わる問題で人の道を決する重大問題が関わっており、神は二人を監視せず、また試金石のように悪魔の誘惑を許していましたが、それこそは自由の中でこそ示される真実の愛が試されたのであり、事前に神は二人にすべてを話してはいません。ただ『死』という重大な結末があることを教えただけでした。そこで何がどのように試されるかの説明は省かれます。これが裁きというものであり、『神の象り』に創られた者、神との関係性で独立しているゆえにこそ求められる二本の道の選びであったといえます。聖書がすべてを明らかにせず、いまだ誰も解けない秘儀を含んでいるのも理由あってのことでしょう。人が「裁かれる前の罪人」であれば、どうして神がすべてを親切に教えることがあるでしょうか。(コリント第一2:7-8/ヨハネ14:17)

そして、与えられた自由意志により利己的な道をすでに悪魔が歩んでいましたが、アダムらも同じ道に入ることにより、その子孫すべても一度限りに不道徳に売り渡してしまい、その結果がこの世の有り様であるのです。
新約聖書のローマ人への手紙の中で使徒パウロはこう述べます。
『一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人が罪を犯したので、すべての人に死が及んだ』。(ローマ5:12)
この結果は、罪悪満ちる世相にまったく明らかではないでしょうか。

アダムとエヴァがこの状態に陥ると、神は二人が『永遠の命の木』からも食べることがないようにと、直ちに最初の権力を行使し、燃えて回転する剣と二人のケルブとを配置して残った木を守らせ、二人はエデンの園を追われる結果となりました。罪を持つ者は永遠の命から隔てられ、寿命の内に後の世代を養育しては去ってゆかねばなりません。

神を含む他者とどのように生きて行くべきかを弁えない者が永遠に生きて良いわけはなく、アダムとエヴァは人間の「倫理」の基礎を破壊してしまったのであり、このとき『罪の酬いは死』という冷厳で動かし難い事態に人類は直面してゆきました。(ローマ6:23)

そのうえ、神の恩寵から離れたエヴァには生みの苦しみが、アダムには生きるための苦労が課せられ、人類の生き様が決まったことが告げられます。『あなたは顔に汗してパンを食べ、最後は土に帰る』。
これは教会が教えるように、死後に天に行くわけではありません。
『あなたは土から取られたのだから。あなたは塵だから塵に帰る』。
つまり、創造の逆の過程を辿り、無に戻るということでしょう。
人の魂は天に行くと聖書は述べません。(創世記3:19)

まさしく、聖書は死についてこう述べます。
『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや酬いを受けることもない。その記憶に残る事さえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、妬みも、すでに消え失せて、彼らはもはや日の下に行われるあらゆる事に定めない時まで関わることがない』。
死後に意識は無いと他ならぬ聖書が言うのです。(伝道の書9:5-6 )

この点でソロモンの言葉はもはや決定的で、諸宗教の教える死後の世界を破壊し尽すほどになります。
『人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これが死ぬように、あれも死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣に勝るところがない。すべてのものは空だからである。皆一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。』

更にこう述べて諸宗教に止めを刺します。
『人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えようか』。(伝道の書3:19-21)

アダム以来、人間社会は神を意に介さず、たとえ神を崇拝していると唱えていても、やはり利己的で神には無頓着であり「ご利益信仰」の宗教がほとんどである実態は否定できないでしょう。つまりは、神中心ではなく、信者は自分の益目当てに神を崇めているのであり、主人公は自分であって神を利用しようとしているのです。果たして神がそのような崇拝者に囲まれることを望むでしょうか。

人間の倫理不全とも言える『罪』については、クリスチャンを称する方々が「キリストの贖いで赦され、天国に行けるのだからそれでいいではないか」などと、まるで自分に無関係でもあるかのように捉えて良いわけもありません。それならば熱心な信者よりは、今は形式だけの信者や、よほど無宗教の人こそ自然な倫理感覚を期待できるほどでしょう。なぜなら、信者のそのような熱心は利己心の裏返しだからです。
それですから、忠節さや愛という善は、どこの宗教にあるとも言えない道理が生じます。所属する宗教で人の内面はけっして定まらないのです。
「この宗教に入れば救われます」というのは、滑稽な誤謬に過ぎないことは明白です。

この世に満ちる諸悪と生活の苦しみとは、もちろん神の意図するところではなく、神が今日までこの世の諸悪を忍耐しているのは、生殖を通して到来するべきすべての人の誕生が待たれ、創造の業の完結までの期間を用いて神はアダムの子孫の救済の業を進展させて来られたのであり、『生めよ、増えよ』との意志はアダム以来一貫して進められ、人々は世代から世代へと一度現れては命を繋いで存続し続けてきたのでしょう。
また、その長い期間が聖書の記述を形作って来たのです。
しかし、いずれは復活する人数を含めて『地に満ちる』とき、それも「裁き」の後での適切な満たしの数に達する時が到来することでしょう。

しかし、アダムの子孫については始祖のように自分からはっきりと神に背を向けたわけではありません。
後代、新約聖書の中で使徒パウロが『アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった』と書いている通り、アダムの子孫については、未だ本当に神を知った上での試練を受けても忠節を守るかどうかは本当には試されていません。大半の人々は創造の神すら意識もしていないでしょう。(ローマ5:14)

ですから『人は一度だけ死ぬ事と、死んだ後に裁きを受ける事とが定まっている』と聖書は言うのであり、人は復活すると聖書が教えるのは、エデンの問いがあらゆる人に問われるためです。(ヘブライ9:27)
ですから「生きている間に教会の洗礼を受ければ救われる」というのは荒唐無稽で論理が崩壊しているというべきで『顔に汗してパンを食べ、最後は土に帰る』という厳しい現実が、どこかの宗教団体に入ることで簡単に解決されるものでしょうか。それは有り得ないことです。

しかし神は、早くもエデンの園に於いて、自らアダムの子孫を救出する見事な手立てを講じます。それが以後数千年に及ぶ『女の裔』という秘儀であり、それはキリストによって人々に命をもたらす目的を持つもので、悪魔の一切の影響を無に帰させるものとなります。
これは創世記の段階ではまったくの秘儀のままですが、聖書記述が世代を越えて重なるうちに、推理のようにその輪郭が見えてまいります。(創世記3:15/ヘブライ2:14-15)

この『女の裔』による人の倫理の回復、それが「罪の赦し」を意味する『贖罪』(しょくざい)という、聖書全巻を貫く一つの大きな主題を形作るものとなり、聖書そのものの存在意義がそこにあると言っても過言でないほどの主要な意味をもってゆくのです。


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