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「学問」という名の山に呼ばれている人

学問という山に呼ばれる人は、その山が持つ固有のリズム、音楽が聴ける耳を持っている人です。そのリズムが好きになり、その先の音の流れにまで心が馳せてしまう人。この耳を生まれつき持っている人もいますが、基本的には学部のときの勉強の姿勢でその耳は培われるものだと、私は考えています。

例えば簡単なことを自分で確かめて、それを面白いと思う体験の繰り返しが、その学問固有の「音楽」を聴く耳を養います。物理学でも、学部で使う積分や微分方程式を自分で丁寧に解いて、「おっ、できた!」というのを沢山繰り返しをしていくと、その耳はできていくだろうと思うのです。

私の場合は、沢山の物理数学の教科書の問題を学部のときに解きました。その蓄積は確かに、理論物理学者としての今の自分を支えてくれています。またランダウの教科書の演習問題を全部解く人もいましたが、それも力を付けます。

禅には拈提(ねんてい)という言葉があります。これは自分の修行の公案に対する姿勢です。普通の日常生活の中でその姿勢を例えると、起きてから寝るまで、食事するときも仕事をするときも休憩をするときも、その公案を心の視野に入れ続けることです。物理学に取り組むことも、この公案と同じだろうと思います。

研究が好きで研究者になった人達を見ていると、共通してるのは、この拈提という姿勢です。始終考えている問題が心のどこかにあることだと思います。つまりその問題を考え続けることが、三度の飯より好きなんですね。そういう人は「山」としての学問から愛され、「山」への奉仕を命じられる栄誉を与えられる人です。「山」から選ばれ、奉仕を命じられる人は幸いです。その人の人生だけでなく、世界の人々の人生をも豊かにできることがあります。ただその奉仕には「山」のリズムや音楽を聴く耳を持つ努力が学部時代に不可欠と思います。

試験に合格すれば良い程度で、講義を単に受身的に聞いていたり、指定された教科書をさっとなぞるだけではなく、自分でいろいろな沢山の他の具体例で手を動かして、その計算から出てくるリズムや声を聴いて得られる小さな感動を、沢山沢山丁寧に自分自身で積み上げてきた人は、きっと「山」としての学問にも愛され、研究することが楽しくなると思うのです。

ただし学部ではもちろん遊んでも良いのですよ。飲み会に行ったり、旅行に行ったり、趣味の時間を楽しんだり。精神の解放は、その後の勉強の気力にも繋がります。実際、プロの物理学研究者になった人達でも、皆さん実に多彩な趣味をお持ちな場合も多いのです。

でも、それぞれの時間さえ、いつの間にか「拈堤」をしてしまう人でないと、大学院に行ったり、研究者を目指したりするのは難しいかなと、正直感じます。他のことをやっている合間合間でも、今挑戦している問題をついつい考えてしまうような人でないと、夢が実現する確率は低いかなと感じます。

研究者を目指そうとする学部や修士課程の物理学徒の皆さんには、勉強している間の自分のこころの動きもよく観察して、本当に博士課程に進学してプロ研究者を目指すのに向いているのかどうかと考えることをお勧めします。

冷静に自分を観察して、もし学問という「山」の音楽にあまり反応してないなと気付いたら、他の分野や、もしくはアカデミアの外の広い社会に、自分を今呼んでいる「山」があるのかもしれません。その場合には、そのような「山」を探すために、勇気を持って環境を変えることが、自分を本当に活かす道なのかもしれません。


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