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量子力学におけるミクロとマクロの境目

マクロ世界も量子論で記述できることは、量子力学という理論の重要な主張です。実際の実験でも、ミクロ系からどんどんと系のサイズは大きくなっており、顕微鏡で目で見える程度の系でも量子的な重ね合わせ状態が簡単に作られ、その干渉効果を観測できるようになりました。このメソスコピック系やオプトメカニカル系と呼ばれる系のサイズ拡大の記録は世界中で日々更新されているような状況です。クマムシを使った干渉実験もありました。今まで量子力学がマクロ系で破れる兆候は、実験では全く見えていません。

かなりマクロ系に近い物理系でも量子力学の正しさが実証されていることは、量子力学の予言の1つでもある量子コンピュータの可能性をより信頼できるものにしています。

しかし波動関数の収縮を自発的に起きる物理的な現象として理解を試みる理論も、世の中にはいくつかあります。そのような理論では、ミクロとマクロの自由度の間にある閾値を仮定したりします。対象の自由度がある値を超えると、途端に古典力学的なマクロ実在になるという設定です。ただそういう非量子力学的な理論では、その閾値を決める原理は全く不明なままです。その自由度の数え方が観測者の視点の置き方次第でコロコロと変わってしまうことが、その理由です。

例えば図1のように、マクロ的に多数の粒子が空間にばら撒かれているとしましょう。

図1

この全体を1つの系と思うと、その系の粒子数は膨大になります。ではこの全体系の波動関数が自発的に収縮をして現れた古典系として思えるのか?という問題です。

そもそもは空間内に距離をとってバラバラに散らばっている粒子にすぎません。もっと小さな空間領域の中に含まれる部分系を考えれば、その粒子数は十分に少なくできるので、その部分系は少なくとも完全に量子的に扱うべき対象のはずです。例えば人間の指先に付いている電子1つは、量子的な存在です。

小さな粒子は完全に量子力学に従うと思って、それを1つ2つ3つとその数を段々と増やしていきます。例えば10万個の粒子が集まると、突如古典力学に従うと思うのは、いかがでしょうか?多粒子の集まりですが、その部分部分には量子的な粒子が含まれています。でも全体としてはマクロ系で、それは完全に古典力学に従うようになると考えることは果たして自然でしょうか?

もし古典力学に従う対象となるギリギリ大きなマクロ系になったとします。その系を半分にしたら、その半分の部分系は量子力学に従うということになりますよ。高々半分ですから、それだって自由度は十分に大きなマクロ系と普通は見なせるわけですが、それは量子力学に従うというのです。1つの対象を半分に割っただけで、途端に量子力学に従うという自由度の閾値理論はとても奇妙で、不自然です。

部分としては量子で、全体としては波動関数が収縮をしている古典だという考え方には、粒子間の距離や多体相互作用の強さに閾値の存在が必要です。そしてその概念も、自由度の勝手な数え方に依らない定義をしないといけません。どの部分を見れば、それは量子だとか古典だとかをいちいち定義しないとならないのです。しかし現時点では、その辺りの定義も合理的にクリアして成功している理論はありません。

一方で、量子力学ではそういう自由度の閾値はないことを前提にしています。粒子が何個に増えようと、それは量子力学に従う対象なのです。マクロ的な古典的な振る舞いも、量子の法則で創発している2次的な概念だと考えます。厳密には近似的な存在に過ぎません。

ただしその創発概念である「マクロな実在」はとても良い近似であって、そのため古典力学は日常でも十分に有効なわけです。たとえば空に月があると確認した後、しばらく月から目を逸らして、次に自分が目を向けるときに、空のどこにその月が観測されるのかは、近似理論の古典力学でも完全に無視できるくらいに小さな誤差の範囲で、答えを与えてくれるのです。




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