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量子力学と自由意志

運動方程式を通して、未来を見通してしまうラプラスの悪魔。この有名な物理学の議論から人間の宿命論を演繹してしまい、継いで自分の人生にも価値を見出せなくなり、人生において努力も何も意味がないとか言い出すことはありません。自由意志なんて絶対あり得ないと感じるのも、量子力学を使っていないからです。量子力学は、全く決定論的ではないサイコロを振るような本来的偶然性と、AI的な機械学習の実装の両方を許すので、ラプラスの悪魔を封じることができるのです。もちろん古典力学による決定論でも、単に自由意志があるように感じてしまうシナリオがありますが、それとは違う話を今回します。

決定論や自由意志と関係して、例えば哲学者が「時間と分岐の謎」と表現している分岐問題というものがあります。この分岐問題とは、可能な歴史の選択肢の中から人間が1つの思考や行動を選ぶ場合に、自由意志による選択は、いつ起きたのかという問題を指しています。

例えば病院に行ったのは熱が39度を超えたから。体温計を見た瞬間、私は病院に行く決断をし、その後すぐに家を出た。まさにその瞬間に、病院に行く歴史が選択された。では体温計を見た瞬間が決断の瞬間で、この瞬間が病院に行く歴史と行かない歴史の分岐点に当たるというのは本当か?という問題を意味しています。この例で哲学者が定義する「分岐点」とは、熱があって病院に行く歴史と熱がなくて病院に行かなかった歴史の双方を遡ったときの、その2つで共有する最後の歴史事象の時刻のことです。体温計を見て、熱があったと分かった瞬間は、熱が無かった歴史の中では決して共有されないので、それは分岐点ではないというロジックを哲学者は展開します。そして自由意志が判断を下した分岐点はいつなのかと問い出し、結局それは存在していないと述べます。

単線性という言葉も、各時刻に分岐がない一意な歴史の時間発展に対して哲学者は使います。これは物理学で言うところの決定論的時間発展を指しており、時間反転をした逆運動も可能という意味です。つまり単線性とは、過去から未来の時間の流れの中で、各時刻に起きる事象の必然性とも言い換えることもできます。

この分岐点が見つからないということは、決定論的な古典力学を背景にした話です。ところが量子力学では状況が変わるのです。非決定論的なサイコロを振って未来を選択するようなランダム性を既に内在しているところが、古典力学とは異なる点なのです。

今回は少々専門的知識が必要となります。そこで仕方なく、学部生レベルの量子力学の知識を仮定して説明をします。

アリスがある場所に行こうか行くまいかを悩んで考えています。このアリスも図1のようにマクロな量子系として扱います。ある時刻に先の例の体温計の役目をするスピンのz成分をアリスは測定し始めて、それが上向きだと意識した段階で「行く」と決定します。だからもしスピンの初期状態が上向き状態に設定してあれば、100%の確率で「行く」とアリスは決定するのです。

図1 

初期にスピンが既に上向きならば、アリスの量子状態はスピンと相互作用を開始した(「アリスがスピンを見た」と同じ意味です)時刻から変化をし、初期の悩んでいる状態とは異なる「行く」という量子状態へと移ります。図1のこの過程自体は、量子力学においても原理的には可逆であり、決定論的で単線性や必然性を持っています。アリスの気持ちも、普通の滑らかな心の移り変わりをして、時間的にも飛びのない連続的な歴史を辿っていきます。

同様に図2のように、初期に下向きスピンであれば、アリスは決定論的に「行かない」を選択するとします。この場合にも単線性は成り立っています。

図2

可能な歴史の分岐問題を考えるために、図3のように、スピンの初期状態が上向きと下向きの同じ係数での量子重ね合わせ状態を用意してみましょう。量子力学は線形性をもつので、以下のような重ね合わせの時間発展をします。

図3

この場合シュレディンガーの猫のように、マクロな量子重ね合わせが生じます。これも線形でユニタリーな時間発展ですから、決定論的運動にすぎず、時間反転も可能です。だからこの場合でも、量子力学とは言え、もちろん図4のように単線性、必然性があると言えます。

図4

ちなみに量子力学では、スピンのz軸方向上向き状態と下向き状態の重ね合わせ状態は、図5のようにスピンx成分の上向き状態という1つの状態になっています。

図5

ですので、同じ時間発展を図6のように書くこともできます。t=0の初期時刻では、スピンx成分が上向きであり、そしてアリスは「悩み中」という単一の状態にあります。t=0でのこの合成系の状態自体は、これから2つに分かれていく「行く」「行かない」の2つの歴史の両方に共有されていることに注意して下さい。

図6

2つの歴史の分岐はどこかあったかというと、アリスとスピンが測定相互作用を始める時刻から、「行く」「行かない」の2つの歴史が、状態ベクトルとして直交するようになるまでの時刻までの時間領域になります。ただしそれは「分岐点」ではなく、一般には有限時間の「分岐領域」に拡張されていることには注意です。


図7

ここで物理学では、この分岐領域とその後に続く未来との境界に「ハイゼンベルグ切断」という名前をつけています。この名は、もちろん行列を使った量子力学の定式化で有名なヴェルナー・ハイゼンベルグに由来しています。

この重ね合わせの場合でも、「行く」と決定する歴史の中でのアリスの気持ちは、図8のように、スピンの初期状態が上向きだった場合の気持ちの変化と、全く同じ時間変化をしています。

図8

図6のように状態が分かれていっても、各歴史の中に居るアリスには違和感は起きませんし、その状態分裂には気づきません。量子的な重ね合わせになっているアリスでも、分岐領域の中の時刻でさえ、図8の「行く」と最終的に決定する歴史の中のアリスは、図9のように初期からスピンが上向きだった場合と全く変わらない感覚で時間経過を経験します。

図9

同様に図6の初期状態から、「行かない」と決定する歴史の中でのアリスの気持ちも、スピン初期状態が最初から下向きだった場合の気持ちと全く同じ時間経過をしています。

図10

今の例ではスピンが上向き50%下向き50%なので、「行く」「行かない」の判断も完全にランダムです。ですから出鱈目に行動を決めているだけで、アリスが自由意志で選択しているようには思えないかもしれません。日常的な意味での自由意志による選択ならば、それまでの経験や学習から彼女の嗜好が生まれ、「行く」「行かない」の確率も変わるだろうと考えるからです。

そのような自由意志を感じられる状況を作りたければ、AI技術と同様の機械学習を採り入れれば良いのです。アリスが判断に使うスピンの状態を、t=0以前のアリスの経験等に応じて変えるのです。その変化によって、アリスの「行く」という判断が優勢になったり、「行かない」という判断が優勢になったりします。これまで同じ比率だった上下のスピンの重ね合わせの係数を自由に変えるのです。図11ではスピン上向き状態の係数をcosθ、スピン下向き状態の係数をsinθとしています。機械学習のアルゴリズムを使って、そのθの値を変動させて、アリスの過去の体験結果からのフィードバックや元々の嗜好を反映させます。すると量子力学の確率分布からアリスの自由意志が創発しているように見えるはずです。

図11

このようなことを考えれば、古典力学とは異なり、ラプラスの悪魔が出てくることは無くなります。このモデルでのスピンに当たる自由度は、脳の一部だと思うことも可能でしょう。量子力学は通常小さな物理系にしか顕著な効果を出しませんが、アリスの脳の極小さな一部分の量子的な揺らぎが、このモデルのスピンの役目を担うことがあっても不思議ではありません。カオス現象のバタフライ効果のように、小さな揺らぎが瞬く間に大きな影響を全体系に及ぼすことも物理では起きるのですから。(ただしその量子揺らぎは、その信号増幅過程の初期に古典的な揺らぎへと変化します。)人間の自由意志は、このような量子揺らぎと人間の機械学習的機能で十分理解できる可能性があるのです。

なお機械学習で生成されるAIの性格は、主に損失関数やコスト関数などの報酬系を定める関数で決まってきます。ここではラプラスの悪魔を超克するという意味での「自由意志」を論じてきましたが、その自由意志も所詮その関数で決まっているものではないかという批判もあり得ます。人間の体や脳の進化の過程では、そのような関数が自発的に選ばれて、たまたま適者生存による選抜を生き延びてきたという可能性もあります。ここでの立場は、そのようなコスト関数で制御される対象でも、ラプラスの悪魔から自由となるという意味で「自由意志」を持つとして話を進めています。

また量子力学を動作原理とした量子AIが将来現れれば、それも自由意志を持つと言ってよいのかという問題もあります。意志をもつ「意識」の問題もでてきます。量子AIが意識を持っているかどうかは、チューリングテストに合格するかしないか程度のチェックしか、原理的にはできません。そのテストによって、一旦意識を持ったと判断した場合には、その量子AIはラプラスの悪魔からは自由である「意志」を持っていると言えると、私は考えています。


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