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ブラックホールに落下する物体は永遠に外から見えるのか?

物理学の教科書でブラックホールを学ぶとき、最初に出会う驚きの記述のひとつは「事象の地平面の外から見ていると、ブラックホールに落下する物体の運動はだんだんと遅くなり、決してその地平面を過るところは見られない」というものではないでしょうか?しかしこの記述は時空への反作用を与えない仮想的なテスト粒子に対してだけ正しく、エネルギーをもつ現実の物体には正しくないのです。実際には、ある有限の時間でその物体がブラックホールに吸い込まれる場面が外部からも観測できます。

質量がMである球対称なブラックホール解は下記の数式で与えられています。(以下では重力定数をGとします。また光速度cは1にする単位系で書きます。)

この動径座標rは、r=一定としたときの以下の球面面積A(r)で幾何学的に特徴づけられています。

つまりその球面面積を測れば、その場所の座標rの値が物理的にわかるのです。

図1

このブラックホール時空を解析するときには、時空に反作用を与えないテスト粒子の測地線を計算することが多いです。例えば球面に垂直に入射する粒子は、

という形の測地線解を持ちます。ここでτは次の方程式で定義されるその粒子の固有時間です。

質量Mのこのブラックホールの事象の地平面の半径はr=2GMで与えられます。ですからその面積は質量の2乗に比例をしています。またこれが地平面であるということは、その内部から光速度で外部に向かうあらゆる物体でも、その外部には出れないという意味です。特にr=2GMの時空領域は光の外向き測地線の束で指定できるのです。物理的には、地平面の各点は光速度で外向きに運動し続けているけれど、ブラックホールの重力によって内側に引っ張られてしまい、地平面上に束縛されているのだと解釈できます。図2の赤い矢印は地平面上に束縛されてしまっている光を表しています。

図2

ここまでは、落下する物体が時空に与える反作用を無視した議論です。この前提では、地平面に落下する物体の姿は永遠に外部からも見ることができます。例えば落下する時計がその固有時で定期的に外部へ自分の時刻を知らせる光を出すとします。時空への反作用を考えなければ、動径座標rの値が大きな平坦外部領域にいる外部観測者に、光が時計を出発した時刻も知らせるその光は、延々と届き続けます。ただ光に表示される落下時計の固有時間は等間隔なのに、その光の外部への到着時刻の間隔はどんどん大きくなり、最後には無限に開いていきます。

地平面近傍には、地平面を跨ぐ座標(T,X)と、地平面外部だけをカバーする座標(t,r)の2つを考えることができます。質量Mが大きなブラックホールでは、地平面近傍の時空曲率は無視できるくらいに小さくなるので、その領域をほぼ平坦な時空として扱うこともできます。すると地平面近傍では

と良い精度で近似できます。

この設定において図3では、地平面をr=2GMの赤い世界線で描いています。それは光の測地線と同じ斜め45度の直線です。2GMより少しだけ大きな値2GM+2GδMに動径座標rを固定した世界線を、図3では青線で描きました。また時刻tが一定の世界線を緑色の線で描いています。なお時刻がt=∞の線は、地平面のr=2GMの世界線と一致しています。

図3


そこで図4のように、動径方向に幅をもった落下物の世界線を2本の太い黒線で表してみましょう。この2本の線はその物体の端を表しています。なお以降では落下物も3次元空間で球対称な配置をしているという設定で説明をします。

図4

(T,X)座標系では、何事もなく物体が地平面を越えていくのが見えています。しかし(t,r)座標での有限の時刻tでは、物体はr=2GMという地平面を越えていきません。地平面からずっと遠いr→∞の外部平坦領域までにも張られて、かつこの地平面外部領域全体を時間変動しない静的時空として記述をするこの(t,r)座標系では、時空への反作用がなければ、落下物は地平面内部に落ちず、永遠にその姿を外部から見ることができるのです。たとえば図4のt=t_3に落下物の右端(r=2GM+2GδM)から外に向けて放出された光は、図3の黄色の矢印線のようにrの値が大きな外部の領域へと確かに伝搬できます。その光を外部観測者は捕らえることができるのです。

ただしその物体の動径方向の長さはローレンツ収縮をして、ぺちゃんこに潰れます。例えば(T,X)座標での図4では落下物の大きさは有限の大きさになっていますが、時刻t=t_3の(t,r)座標ではr=2GMとr=2GM+2GδMで挟まれた極めて狭い空間領域に落下物の世界線は収まっています。r=一定の世界線は(T,X)座標での加速度運動に対応しており、rが2GMの値に近づくにつれて、その世界線の速度は光速度に限りなく近くなります。逆に(t,r)座標で見ると、相対的に落下物がほぼ光速度で走っていることになり、落下物の長さは激しいローレンツ収縮を起こして非常に短くなるのです。t→∞極限では、最初は大きかった落下物の動径方向の長さも零になります。

ここからが本当にお伝えしたいことです。落下物の時空への反作用を考慮すると、上の議論は大きく変わるのです。たとえばブラックホールの質量に比べてはるかに小さな質量の時計でも、ある時刻t以降には新しい地平面にその時計が必ず飲み込まれてしまいます。そしてその後時計が発した光は外部観測者に届かなくなります。外部観測者にとっては、ある時刻tを境にしてその時計の姿はフッと消えるのです。反作用がなければ永遠にその姿が見えたはずの時計が、実際には見えなくなるのです。

これを少し具体的に以下で説明をしてみます。質量Mの星の重力崩壊でできたブラックホールに、エネルギーから換算される質量がδMである落下物(今の場合は光を出す時計)が落ちる状況は下の時空図で表せます。落下物の質量のせいで少しだけ重くなったブラックホールの地平面の位置は、r=2GMからr=2G(M+δM)へと外部に移動していていることに注目してください。この移動以降では、半径r=2G(M+δM)で与えられる球面上の各点の運動は外へ向かう光の測地線の運動に一致します。

図5

図5の地平面近傍を拡大して、光の測地線が斜め45度の直線になるように描いたものが、図6になります。(ここでは簡単のために落下物の世界線を光の測地線に近づけています。)

図6

落下物が通過する前には古い地平面の外側にあった時空領域(図6の実線と破線の間の領域)が、通過後には新しくできた地平面の内側に入ってしまっていることに注目をしてください。このような反作用をちゃんと考慮すると、落下する時計が発する光はある時刻以降には無限遠方に届かなくなることがわかります。図4に質量δMの落下物の反作用を採り入れた図7でも、地平面の位置はr=2GMからr=2GM+2GδMに移動をしています。


図7

図4ではt=t_3に落下物の右端(r=2GM+2GδM)から外に向けて放出されて、r→∞の外部領域へと伝搬ができていた光は、図7ではr=2GM+2GδM自体が地平面になってしまったために地平面に束縛されてしまっています。その光はもう外部観測者まで届きません。これから「ブラックホールの外部からは物体が地平面内部に落ちる場面を永遠に観測できない」という主張は間違っていることがわかります。「永遠に観測できない」とは、飽くまで時空への物理的な反作用を持たないテスト粒子の測地線だけを想定した数学的な話に過ぎません。ブラックホール質量Mに比べてどれだけδMが小さかろうと、δMが有限である限りは、時刻tが十分先の未来では物理的な落下物が放つ光は外からはフッと見えなくなるのです。

(ちなみにここでは簡単のために落下物の配置に球対称性を課して説明をしましたが、点粒子をブラックホールに落とす場合でも同様で、新しい地平面が古い地平面とその粒子を飲み込むように有限時間で形成されます。)




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