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キャラクターとは何か――『現代ミステリとは何か』補論

琳 (@quantumspin) | Twitter

はじめに

 本稿は筆者が限界研に入会するための応募原稿として書き上げたもの(の一部)です。入会してさっそく驚かされた事に、そのときちょうど限界研でテン年代ミステリ論集の企画が動きだそうとしていました。すぐに筆者も飛び入り参加させていただく話になり、だったら本稿も使ってもらえないかと、厚かましい期待を抱きもしたのですが、そもそも本のコンセプトは作家論集で、筆者の原稿はテーマ論。しかも規定の倍の文量に達していた為、そのままでは掲載できそうにない。そこで応募原稿から円居挽に関する文章を抜き出し作家論の体裁に書き直したものが、今回『現代ミステリとは何か』に載った「シャーロック・セミオシス――円居挽論」です。
 その後、新たに「連帯と推理――今村昌弘論」も書下ろし、どうにか拙論は日の目を見る事になったのですが、応募原稿の半分ほどは未発表のまま残され、これはこれでもったいない。多分読者も円居挽論だけ読むより、当初の構想の全体を俯瞰した方が、より筆者の考えが伝わる筈だ。そう考え、『現代ミステリとは何か』発売に先立ち、この未発表原稿の残り半分を改稿しフリー公開することにしました。むろん本稿も『現代ミステリとは何か』の円居挽論も今村昌弘論も、それぞれ単独で読める文章ですが、同時にそれぞれ繋がってもいます。本稿が理論中心で実践例が少ないのも、実は以上の経緯によるものです。本稿を読み『現代ミステリとは何か』にも興味を持ってもらえたら、筆者としては望外の喜びです。

※本文のなかで本稿末尾の参考文献に言及しています。未読の方はご注意ください。

1. 大量死論とは何か

 エミリー・アンデスは『サイボーグ化する動物たち』のなかで、遺伝子組み換えペットの現状と行く末を次のように素描している。

 たとえばフレックスペッツという米国の会社は、遺伝子組み換えによってField1と呼ばれる遺伝子をもたないネコを作ろうとしている。これは人間のアレルギーを誘発するタンパク質をコードしている遺伝子だ。でもそれはほんの手はじめにすぎない。卒業した学校のシンボルマークと同じ色の魚や、被毛の模様を自分の好みに指定したイヌやネコを注文できるとしたら?あるいは、パデュー大学のヒューマンアニマルボンド・センターでセンター長を務めるアラン・ベックが言うような、究極のデザイナーズペットはどうだろう。「もしも遺伝子組み換え動物を自由に作れるようになれば、飼い主だけを愛してくれる動物を手にできるかもしれませんね」

エミリー・アンデス『サイボーグ化する動物たち』p.29

 大衆の欲望に奉仕すべく人為選択され人工的環境でしか生存できないペット達。そうした異形の進化を強いた結果、鼻先短く生涯を酸素不足に悩まされるイングリッシュ・ブルドックや、眼球飛び出し巨大な肉瘤で覆われ視力を失くした金魚の危うい泳姿を愛玩する大衆。デカダンスにも例えられそうなこうしたペットの現状には、どこか『動物化するポストモダン』で東浩紀が記した、九〇年代まんが・アニメ的キャラクターのあり様を思い起こさせられる。

 (『デ・ジ・キャラット』)のキャラクターは、すべて、意図的に萌え要素を過剰にして作られている。でじこは「フリルをつけまくったメイド服に白い猫耳帽子、猫手袋、猫ブーツ、そして猫しっぽ。完全無欠の萌え萌えオプションフル装備」であり、ぷちこは「トラ縞模様の猫耳帽子をかぶり、セーラー服にちょうちんブルマー。お尻にはトラ猫のしっぽがついているという、ファンにとってはかなり凶悪かつ反則的な萌え萌えコスチューム」だとノベル版は記しているが、このような自己パロディ的な記述が、この作品の置かれた危うい位置を明確に示している。でじこは猫耳をつけて「そうだにょ」「疲れたにょ」と話すのだが、それは猫耳や「にょ」そのものが直接に魅力的だからなのではなく、猫耳が萌え要素で、特徴ある語尾もまた萌え要素だからであり、さらに正確に言えば、九〇年代のオタクたちがそれを要素だと認定し、そしていまやその構造全体が自覚されてしまっているからなのである。

東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』p.70

 『動物化するポストモダン』では、当時のオタクたちが「感情的な満足をもっとも効率よく達成してくれる萌え要素の方程式を求めて、新たな作品をつぎつぎと消費し淘汰し」ていたと記される。東に言わせれば「薬物依存者の行動原理に近い」オタクたちの〝データベース消費〟は要するに、当時のキャラクターを愛玩動物の如き異形の進化に至らしめたという事だ。萌え要素にまみれたデ・ジ・キャラットの愛らしい容姿は、そうした当時の記憶を現代に伝えている。
 一方で、笠井潔は『探偵小説論』において、探偵小説の起源を次のように論じている。

 大戦が生産した無意味な屍体の山に対して、それを新たに意味づけ直さなければならないという衝動が、各国で普遍的に生じた。共産主義もファシズムも、表現主義もシュールレアリスムも、またハイデガー哲学も、そうした磁場において大衆や知識人の心を掴んだのだ。
 直接の戦禍を避けえた英米では、それらに対応し、それらを代補するものとして本格探偵小説が書かれ、かつ広汎に読まれたのである。ひとつの屍体に、ひとつの克明な論理。それは無意味な屍体の山から、名前のある、固有の、尊厳ある死を奪い返そうとする倒錯的な情熱の産物ではなかったろうか。

笠井潔『探偵小説論I 氾濫の形式』p.20

 無意味な屍体の山が生産された時代の人間の尊厳。それと対峙し隠蔽する為の探偵小説という装置。笠井は探偵小説の戦後文学的特質を重厚な筆致で論証するのだが、そうした必然は、人々が家畜のように無気力な「大量生」を送る八〇年代後半の新本格ムーヴメントにもまたあてはまると続ける。これが有名な「大量死/大量生理論」である。
 こうして笠井の壮大な理論体系によって根拠を与えられた探偵小説は、さらに作中人物の扱いまでも独特な形で捉えなおされていく。

 探偵小説形式の秘密は、ナイフの刃のように鋭い、険しい尾根道を最初から最後まで辿りつくそうとする厳格な意思にある。本格探偵小説は、そのために危険きわまりない寝技を考案した。柔道の巴投げのように本格探偵小説は、近代的な意味では小説も文学も芸術も不可能であるに違いない二〇世紀の現実性に、まず倒されて見せる。キャラクターをパズルのチップと化すことは、巴投げの前段にあたる。そして巴投げの後段のように、本格探偵小説は倒されることにおいて最後に敵を倒す。パズルのチップとして読者の前に散乱していた無個性なキャラクターが、「謎―解明」の論理的魔術を通過することにおいて、読者に事後的に、忘れがたい鮮烈な印象を残すことになる。本格探偵小説は二〇世紀という残酷な時代性に解体された「人間」を、魔術的な方法で再生する。以上が、二〇世紀文学としての探偵小説形式の核心である。

笠井潔『探偵小説論I 氾濫の形式』p.254

 面白い事に、ここでは探偵小説家が、読者の人間性を回復させるため、キャラクターをパズルのチップに解体したとされる。探偵小説が「人間が描けていない」のは決して、トリック至上主義や作者の筆力といった世俗的な問題ではなく、固有名をはく奪され「無意味の荒野」に送り出された大衆を再生させる魔術と笠井は主張しているのだ。言い換えると、黄金時代や新本格ムーヴメントが築き上げたのは、トリックに映えるよう配置され探偵の推理を撹乱し、セリフもないまま犯人に殺されていく、そうしたご都合主義的な「記号化の暴力」に晒されたキャラクターたちの生贄の山だったのである。
 記号に解体されたキャラクターを生贄に、自らの無意味な生を隠蔽する大衆。笠井が示した九〇年代前後の新本格ムーヴメントをめぐる世界観に、やはり九〇年代オタクたちが記号に解体し消費し続けたまんが・アニメ的キャラクターを重ね合わせると、その類似性は瞭然としている。当時の虚構存在は、一方ではオタクたちの欲望に奉仕すべく過剰な萌え要素を実装され無意味な生を送り、飽いて捨てられる淘汰圧に晒されながら、他方では家畜の如き大衆を魔術的に再生する生贄として、パズルのチップにまで変貌させられてもいた。笠井の言葉を借りれば、過酷な大量死の現実に晒されていた虚構存在をとりまく環境のなかで、彼らの意味を回復させる物語形式は、半ば必然的に生起してきたのではなかろうか。

2. セカイ系とは何か

 世界大戦が探偵小説に結実した時代が、同時に表現主義やシュールレアリスムといった芸術運動の時代と呼応していたように、虚構存在の大量死はミステリに限らず、まんが・アニメ的表現一般に決定的な変化を与えた筈のものである。そうした変化の痕跡を、本稿では「セカイ系」と呼ばれる文芸ジャンルに求めたい。その為に前島賢が『セカイ系とは何か』のなかで展開した、まんが・アニメ的表現の変容についての分析を引用したいと思う。

 『新世紀エヴァンゲリオン』の後半において、碇シンジという薄いセル画の上の絵が、庵野秀明という一個の自意識の受け皿となり、作品を完全に破綻させるほどの勢いで「アイを叫ぶ」という事件が起こるまで、オタクたちはマンガやアニメのキャラクターたちが、生身の人間と同じような身体や自意識を持つということの、あるいはそこに自己を投影することの、不自然さを認識していなかったのではないだろうか?
 そして『エヴァ』という事件によって芽生えた不自然さへの驚きと問いこそが、セカイ系とも名指された自己言及の運動であったと筆者は考える。なぜ自分たちは、ゲーム、マンガ、アニメ、ライトノベルといった虚構の世界の人物に、巨大ロボットや宇宙戦争や密室殺人などという物語に、素直に重ね合わせ、感動しているのか?
 それを問うためにこそ、ポスト・エヴァの作品たち(その多くがセカイ系と名指された)は、みずからのジャンルの虚構性、チープさを明らかにした上で、なおかつ真摯な物語を語ろうとしたのではないだろうか。

前島賢『セカイ系とは何か』p.151

 ここで重要なのは、前島が「ポスト・エヴァ」作品の本質を「自己言及の運動」に求めている点である。「自己言及の運動」とは何か。彼は次のように説明する。

 エヴァンゲリオンを初めて見た碇シンジは「顔、巨大ロボット?」と発言し、あるいは『無限のリヴァイアス』でも、初めて出現したロボットを目撃した少年たちは「ロボットだよ」「マジかよ」「デタラメだ」、と口々に言う。この描写は『機動戦士ガンダム』でアムロが「ザク」を目にした時の反応とは真逆である。(…)
 簡単に言えば、アムロはそこで(第一次世界大戦で戦車をはじめて目撃した兵士のように)「モビルスーツ」という未知なる巨大人型兵器と出会っている。それに対して、90年代に作られたロボットアニメの主人公は「巨大ロボット」という既知のものと出会っているのである。「顔、巨大ロボット?」という碇シンジの姿を通して描かれているのは、日常的にロボットアニメなどを見て育った少年が、現実にロボットと出会ったらどうなるか、という表現である。

前島賢『セカイ系とは何か』p.142

 この後前島は「セカイ系」作品を列挙し、いずれの作品においても、まんが・アニメ的表現のチープさをキャラクター自らが指摘する描写が見られる事を確認する。虚構である筈のキャラクターが、ご都合主義的な「セカイ」の荒唐無稽さをメタ認知し、作者の恣意性にツッコミを入れてしまうリアリズム。これが彼の言う「自己言及の運動」である。
 前島の指摘は極めて説得力があり、実際それは「セカイ系」の一端を捉えているのだろう。ただ本稿の視点から彼の論を辿ると、そこには核心的な「ホワイ」が言い落されているようにも思える。それはすなわち、「なぜ」キャラクターはそうした、メタフィクショナルな世界観を持たされてしまったのか、という「ホワイ」である。
 仮に前島の言う「自己言及の運動」が、まんが・アニメに感情移入する不自然さを「ポスト・エヴァの作品たち」自らが問うためだけのものなら、なぜ作者は、虚構に耽溺するオタクが物語を破綻させる勢いで「アイを叫ぶ」ような自然主義的作品を描かなかったのだろうか。あるいは、異様な萌え要素にまみれたキャラクターを露悪的に突きつけ挑発し、オタクの感情移入の限界を目指すまんが・アニメではどうだろう。それらもやはり、まんが・アニメに感情移入する不自然さを作品たち自らが問う点で一致しているように思えるが、それらが「セカイ系」に区分される事はないし、恐らく作者もそれでは満足しなかっただろう。そうではなくて、萌え要素を記号に解体し受容していた筈の消費者と、その消費対象に過ぎないまんが・アニメ的キャラクターと、両者を重ね合わせ生じる不協和や荒唐無稽さを作中人物自らが問う事こそ、「セカイ系」になくてはならない描写だったのではないか。そうなら「セカイ系」の本質は、作者の自意識にもなければ、消費者のそれにもない。前島の言う「自己言及の運動」の本質は、作中に置かれた虚構存在の自意識にこそ求めなければならないだろう。ではなぜ、作者はあえて、まんが・アニメ的キャラクター自身に「自己言及の運動」を強いてしまうのか。前島の分析からこうした問いに答えを見出す事は難しい。さらに『セカイ系とはなにか』を見ていこう。

 前述した諸作品は、読者と同じ現代に生きる若者を登場させて、過剰なまでの自己言及を行い、巨大ロボットや最終兵器、名探偵や宇宙人、そしてセカイ系などが、マンガチックな、虚構の存在にすぎないことを示そうとする。そして、そのことによって登場人物がマンガをマンガと指摘できる、近代的な自意識と、傷つく身体を持つ生身の人間、言わば透明な文体で描かれるべき存在であることを明らかにする。そして、そのうえで、彼らを、まさに当の彼ら自身が虚構であると名指した不透明な世界=宇宙戦争、密室殺人、セカイ系のなかへと投げ込むのである。

前島賢『セカイ系とは何か』p.149

 ここで前島は、東が『ゲーム的リアリズムの誕生』で提唱した「半透明な文体」の成立条件を問い直している。大塚が「アトムの命題=まんが表現が自然主義の夢をみてしまった矛盾」と呼び、東が「半透明な文体」と呼んだ、まんが・アニメ表現におけるリアリズムと、虚構世界に読者視点を取り入れる事とが等しいと彼は主張しているのだ。これは極めて重要な指摘であるものの、しかしなぜ作者はキャラクターに「傷つく身体」を与え「セカイ」を「半透明な文体」で描かねばならなかったのか。前島の言う「だからこそ」にはやはり、この「ホワイ」が欠落しているのである。
 一方で、これまでの議論を通過した本稿の読者にとって、前島が言い落した「ホワイ」に答えを見出す事は容易な筈である。笠井は探偵小説の起源を、戦略ゲームが無意味にも積み上げたグロテスクな大量死の山に見ていた。代替可能なオペレータに過ぎない人間は、そうした極限状態のなかで、やはりゲームの歯車として奉仕させられる代替可能なキャラクターと自己とを重ね合わせ、チープな彼らの固有の死に人間性の回復を結託し探偵小説を受容してきたのだった。「ポスト・エヴァ」の時代のキャラクターもまた、戦後探偵小説読者と同じ経路を辿っているのではないか。「完全無欠の萌え萌えオプションフル装備」でオタクたちの欲望に奉仕した挙句、飽きたら簡単に使い捨てられるキャラクター達を横目に「セカイ系」の登場人物は〝製造〟されている。作中人物である筈の彼らが「みずからのジャンルの虚構性、チープさ」を口にする時、作者の視界には、一方では愛玩動物の如き異形の進化を遂げ、他方ではパズルのチップの如き生を送る、記号に解体され内実の消失したキャラクターたちの「無意味の荒野」が広がっていたのだ。作者が「半透明な文体」を駆使しキャラクターに「傷つく身体」を与え、彼らを「自己言及の運動」の主体として描かざるを得なかったのはだから、まんが・アニメ的虚構を、消費者の欲望に奉仕すべく異形の人為選択を強い製造し続ける事の意味を、笠井の言葉で言うと無意味な大量死の荒野に送り出さざるを得ない彼らの尊厳を、自ら問い空虚な内実を補填せざるを得ない異様な臨界点にまで、キャラクターをめぐる想像力の環境が達してしまったからではないだろうか。

3. 虚構本格ミステリとは何か

 後の「セカイ系」の起点とされる『新世紀エヴァンゲリオン』と同時代に、ミステリ・ジャンルでは京極夏彦や森博嗣、清涼院流水など、キャラクターを基礎に据えたミステリ作家が集中し台頭している。とりわけ清涼院の作品は、それまでの本格ミステリが前提した素朴実在論から遊離した、メタフィクショナルなキャラクターを描く意志を強く感じるものだった。彼が切り拓いた新たな物語形式は、拙論「ガウス平面の殺人」で虚構本格ミステリと名付け論じたとおり、西尾維新や城平京、井上真偽といった作家に継承され現在に至っている。
 虚構本格ミステリとは、探偵の世界観がまんが・アニメ的である事により、時として現実を生きる我々の常識から乖離した解決に導かれるミステリ作品と要約できるだろう。例えば清涼院の『ジョーカー』(一九九七年)の解決は、読者にとっては挑発的としか言いようがない。しかしそれはキャラクターである探偵の常識に寄せた解決であって、むしろ探偵にとってリアルだからこそ、現実を生きる我々に挑発的に映るのだ。
 虚構本格ミステリというこの物語形式もまた、ミステリやまんが・アニメといった先行作品のメタ認知、前島の言葉で言うと「自己言及の運動」と不可分の関係にある。例えば『コズミック』では三五〇名の探偵を抱えるJDC(日本探偵倶楽部)が組織され、さらにはその上位に各国の探偵倶楽部を傘下に置くDOLLが組織されるのだが、清涼院作品でこのような探偵社会が描かれてしまうのは、やはり当時の新本格ムーヴメントが生産したおびただしいキャラクター探偵の山と無関係ではありえない。清涼院は本格ミステリの伝統に倣い、名探偵が現実社会に存在するかのように粉飾する事を容認しない。キャラクターの大量消費の実態を、「手のこんだ口実をつくり出し」隠蔽する気など彼には最初からないのだ。むしろ清涼院は、おびただしい探偵が記号に解体され、ファンダムの欲望に奉仕し製造され淘汰される想像力の異様さを、自らの作中にアイロニカルな組織として登場させ言及し、大量消費の主体に向け悪意的に投げ返してしまうのである。過去の膨大な名探偵を史実に登場させ組織化し、先行するミステリ作品のおびただしい作中言及によって成る荒唐無稽な世界。そうした徹底されたメタフィクショナルな虚構世界のなかでは、探偵自らが世界を「記録物語」と呼び、さらには自身をも「二次元でしか存在できない」と悟り、いずれキャラクターや世界が作者によって生産された意味を自ら問わざるを得ない。新本格ムーヴメントによって必然的にもたらされた清涼院の作品世界が、前島の言う「自己言及の運動」を先取りしたものである事は明らかだろう。清涼院が虚構本格ミステリという新たな物語形式を確立し、彼らにメタフィクショナルな自意識を強いるのはやはり、パズルのチップに解体され内実を取り去られ、魔術の生贄と奉仕した挙句、無意味な大量死の山と化すキャラクター達を、作者が暴力的に生産しミステリ・マニアに捧げ続ける事の意味を、キャラクター自身に問わせ空虚な内実を補填せざるを得ない異様な臨界点にまで、当時の本格ミステリをめぐる想像力の環境が達していたからに他ならない。
 一方で「セカイ系」は、「記号と身体の両義性」が導く不協和をこそ新たな文学と称揚できた。キャラクターにメタフィクショナルな自意識を与えながら、その不協和を自ら解消する事までは彼らに期待されていなかったのだ。ところが探偵による謎の解明を前提する本格ミステリでは、そうした不協和それ自体が解くべき「問い」として立ち上がってしまう。キャラクターに芽生えたメタフィクショナルな自意識は、「人間が描けていない」を錦の御旗に頑なに隠蔽し続けた「昨日の本格」の恣意的展開や、かつて文学が追求していた筈の、世界や人物への根源的問いかけまでも、探偵が解き明かす謎として位置付けてしまうのだ。こうした「問い」を、新本格ムーヴメントの震源地である京都大学推理小説研究会出身であり、ミステリ愛を公言し憚らない清涼院であれば看過できよう筈がないし、清涼院に触発され、やはりアニメやゲームに自然に感情移入できてしまう現代ミステリ作家も思いを同じくしたのだろう。こうして虚構本格ミステリは、この新たな「問い」をドライビング・フォースとして、今日もなお書き継がれていく事になる。

おわりに

 現代のテクノロジーを言い表すキーワードのひとつに「サイバー・フィジカル・システム」がある。これは、物理空間と情報空間とが混然一体となり変容(制御)していくシステムを意味し、むろんここには文化社会も含まれる。ゼロ年代に急速に発達したウェブ空間は、まさに物理空間と混然一体となり、文化社会に大きなインパクトを与え続けている。ときに社会問題にまで達する物理空間のこうした変化の巨大さの影で、情報空間のそれは語り落とされる場合が多いのだが、実際のところ、情報空間の変容抜きにこれだけのインパクトを説明する事はむずかしい。そして虚構と現実とが強く相関し読者のリアリティを揺さぶる虚構本格ミステリもまた、そうしたインパクトの一端を担ってきた。現代社会の変容は、いまやミステリ作家が紡ぎ出す謎物語にまで及ぶようになった—―という順序はおそらく逆で、むしろ謎とトリックの先使用権に貪欲なミステリ作家こそが、時代の新たな手触りをいち早く作品に刻み込み読者のリアリティをアップデートさせ、社会を変容させ続けている当事者と言うべきなのだと思う。
 かつて中井英夫は、人間とは何か、世界とは何かと問うて本格ミステリを発見した。同じように現代のミステリ作家も、キャラクターとは何か、セカイとは何かと問う事で、虚構本格ミステリを発見している。情報空間が物理空間を凌駕するほどの存在感となった現代において、彼らのこうした「問い」は、平凡人の通俗小説に過ぎないミステリ小説を、もはや実存的な文学作品に比肩しうるもうひとつのリアリズムにまで高めているのだ。
 本稿では虚構本格ミステリの起源を理論面から問うた。しかしその一方で、これを実作品に応用し理論を実践することまでは行わなかった。実のところ虚構本格ミステリは、ちょうどセカイ系が異世界系へと変容していくように、テン年代以降もその形式を変化させていくのだが、そうした新たな展開も本稿では言及しなかった。なにより本稿は、虚構本格ミステリという、広大な現代ミステリの地平の一隅しか語れていないのだ。読者としてはむしろ、本稿を読んで「問い」の数が増えてしまったのかもしれない。
 しかしそれでもあえて、筆者は読者に問いたい。現代ミステリとはいったい何だったろうか。今なおミステリ作家は時代を問い、現代ミステリを発展させ続けている。ならば我々もまた、この正体を正面から問うことで、ジャンルの可能性を未来に拓いていかねばならないと思うのだ。
 そういえば、本格ミステリでは古来より「読者への挑戦」なる習わしがあった。ある意味では本稿も、筆者から読者への挑戦と言えるかもしれない。すでに手掛りは示された。それでは謹んで、読者への注意を喚起したい。
 現代ミステリとは何か。

現代ミステリとは何か 単行本 – 2023/2/24
限界研 (編集), 蔓葉信博 (著)

ガウス平面の殺人――虚構本格ミステリと後期クイーン問的題――
メフィスト 2019 VOL.3

参考文献

清涼院流水『コズミック 世紀末探偵神話』(一九九六年) 講談社ノベルス
清涼院流水『ジョーカー 旧約探偵神話』(一九九七年) 講談社ノベルス
笠井潔『探偵小説論』(一九九八年) 東京創元社
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(二〇〇一年) 講談社現代新書
前島賢『セカイ系とは何か』(二〇一四年) 星海社文庫
エミリー・アンデス『サイボーグ化する動物たち』(二〇一六年) 白揚社

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