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科学哲学とは

カピ哲!さんの「言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である」を読んだのであるが、個人的な感想としては、科学哲学とは、Wikipediaに書いてあるように

科学を対象とする哲学的な考察のこと

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%93%B2%E5%AD%A6

であり、

科学の成果をもとに哲学を構成しようとする

言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である

ことではないだろうと感じた。「言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である」はそのとおりだと思った。

科学、そして科学理論をつくり上げるために行われる実験や観察のプロセスが成立する前提を問うのが哲学

言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である

だとすると、科学哲学は哲学ではなく、どちらかというと社会学であろうと私は思う。科学は、「科学者が考えていること」であり、科学者の思考を一種の文化だと考えれば、文化人類学に近いかもしれない。

科学哲学は、考察方法が社会学や文化人類学比べて哲学的なだけで、哲学に比べると哲学的ではないので、さらにいうと科学を哲学の考察対象にする必要性が私にはわからないこともあり、科学哲学は哲学に分類しない方が良いだろうとも感じる。

一方で、科学哲学が社会学や文化人類学の仲間に入れとほしいとお願いすると、科学的でないと、多分反対されるだろう。

科学者からは科学者のことがまったくわかっていないと批判され、哲学者からも批判され、それぞれ一理はあると思うのであるが、科学哲学は科学でもなければ哲学でもないので、それぞれの価値観から批判しても それはそもそも違う価値観の学術分野だからと思うのである。科学哲学の価値観に社会的意義があるかどうかはまた別の問題であるが、単に個人としてそこに意義があると思うならば、その価値観に従って科学哲学するのはそれはそれでよいと私は思うのである。

改めて考えてみると、科学哲学(自然科学哲学の意味だと思われる)という分野はあるが、経済学哲学とか工学哲学とかは聞いたことがない。科学哲学以外に聞いたことがあるのは法哲学ぐらいである。法哲学は、私のイメージでは実定法学と価値観を同じくしていて、法哲学は哲学の仲間というより、法学の中に含まれるという感じである。もしかしたら、哲学者は法哲学を哲学だと思っていないのではないかとも思われる。

そのようなことを考えているうちに、カピ哲!さんの「唯物論はもはや哲学ではない」を見つけて読んだ。

科学理論に基づき哲学を構築しようとするのは明らかな誤謬です(「唯脳論」もその一つ)。そうではなく、科学理論がいかにして成立しているのか、私たちの具体的経験からそのプロセスを明らかにすることがより事実に即していると思います。

唯物論はもはや哲学ではない

ということなのであるが、唯脳論のWikipediaの説明

文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、心など人のあらゆる営みは脳という器官の構造に対応しているという考え方。ただし、脳が世界を創っているなどとしてすべてを脳に還元する単純な脳一元論ではない。「脳が心を作り出す」というよりは「脳という構造が心という機能と対応」しているとする。そして構造と機能を分けて見ているのは脳である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%84%B3%E8%AB%96

を読んでも、唯脳論が科学理論に基づき哲学を構築しようとしているとは私には思えない。上記を読んで感じるのは、唯脳論は科学理論(脳の構造)に基づき事実(文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、心など)を説明しようとしているように感じられる。唯脳論の本を読んだこともなく、脳の構造で社会制度など説明できるとも思われないため読む気にもならないので、何ら確からしいことは語ることができないが、養老さんが哲学だと言ったからといって(言ってるのかどうか私は知らないが)、それが哲学だとは限らないのではないかと思う。

私の知っている科学哲学は、成功しているかどうかは別にして、科学理論がいかにして成立しているのか、私たちの具体的経験からそのプロセスを明らかにしようとすることである(もしかしたら、カピ哲!さんとは、具体的経験に含まれる範囲が異なるかもしれないけれど)。また、私は物理主義なので、根本的にカピ哲!さんの言っていることを理解できていないのかもしれない。

物理主義と「言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である」が両立するかどうかについては、機会があれば書いてみたい。

そうこうし書いているうちに、戸田山さんが

科学的知見と科学的方法とを使いながら哲学し、また、哲学説も科学的知見によって反証されることを認める立場、言い換えれば、科学の一部として哲学をやろうぜという立場を自然主義と言う。私は、この意味での自然主義者だ。科学の手の及ばない、哲学だけでやれる領域を確保するために頑張る、というのはどう考えても不毛だ。

戸田山和久「哲学入門 (ちくま新書)」

と書いているのを見つけた。ちょっとした感想として書き始めた本投稿であるが、だんだん重苦しい感じになってきたので、「科学的知見と科学的方法とを使いながら哲学し、また、哲学説も科学的知見によって反証されることを認める立場」は「科学の一部として哲学をやろうぜという立場」は違うと私は思うと書いて、本投稿は終えることにしたい。私は「科学的知見と科学的方法とを使いながら哲学し、また、哲学説も科学的知見によって反証されることを認める立場」であるが、「科学の一部として哲学をやろうぜという立場」ではない。

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