言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である

戸田山和久著『哲学入門』(ちくま新書、2014年)については、拙著

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

で少しコメントしている(49ページ~)。これから(とりあえず前半だけでも)本格的に分析してみようかなと思う。

 哲学界隈では、科学の成果をもとに哲学を構成しようとする人たちもいるようであるが、それは全くの間違い、順序が逆なのである。
 唯物論は哲学ではない。科学も当然哲学ではない。科学、そして科学理論をつくり上げるために行われる実験や観察のプロセスが成立する前提を問うのが哲学なのである。

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 戸田山氏は、還元主義の限界について説明している。

バナナについて考えているときにだけ発火する神経細胞(ニューロン)が発見されたとしよう。バナナを意味するということの神経レベルでの対応物が見つかったわけだ。われわれの脳では、かくかくの神経細胞が発火することがバナナを意味することの正体なのだ、と言って良い。

(戸田山、22ページ)

 しかし、この発見でわかったのは、あくまでも「バナナを意味する」がヒトの脳でどのように実現されているかだ。

(戸田山、22ページ)

結局、バナナを見ているとき、バナナを想像するとき・・・どこの神経細胞が発火するか、という”対応関係”が分かるということに尽きる。
 しかし問題がずれているのである。そもそも「意味」とは何なのか? ただ想像したのであればそれは一つの光景であり”意味”ではない。そこに何か見えて神経細胞が発火したのであれば、それはただその事実を伝えているだけで、それも”意味”ではない。”紙の上に書いてある文字”(戸田山、22ページ)は「バナナという文字」であって、それ自体は意味ではない。
 (戸田山氏の言われる)還元主義を主張する人々、さらには戸田山氏ご自身が理解されていないことは・・・ここで言う「意味」とはバナナという「言葉の意味」なのである。つまりそこに見えているバナナ、あるいは想像したバナナ、それこそが「バナナという言葉の意味」なのである。
 バナナという言葉をしゃべったり書いたりしたとき、バナナを見たとき、バナナを見て「バナナだ」と思ったとき、バナナを想像したとき、「バナナ」という言葉を聞いてバナナを想像したとき、それぞれなにがしかの神経細胞が発火しているのであろう。
 しかし、それらはまずバナナという言葉があり、その言葉が指し示す(意味としての)実在のバナナや想像のバナナとの関係が知られた上で導かれる対応関係なのである。「バナナ」という「言葉」が何を指しているのか実験者が(もちろん被験者、そしてその論文を読む人も)理解していなければ実物のバナナを見てニューロンが発火したという対応関係など導きようもない。
 脳科学は、(既に述べたが)バナナを見たり想像したり、バナナという言葉と実在や想像のバナナとが結びつけられたりしたとき、ニューロンがどのように働いているのかの対応関係を導くだけである。
 さらに言えば、ニューロンとは何か(ニューロンという言葉が何を指しているか)、脳とは何か(脳という言葉が何を指しているか)、その対応関係が既に理解されている、それぞれの言葉の意味が既に知られていることが前提なのである。
 つまり(言葉の)意味というものは、脳科学や物理学によって裏付けられるものなのではなく、脳科学や物理学という学問を作り上げる前提となるものなのである。そして当然、意味は物理学や脳科学と相反するものでも矛盾するものでもない。

「意味」という存在もどきはそのつど何らかの物理的な状態で実現されていて、非唯物論的なココロといった実体を必要としない。にしても、意味は、「他の仕方でも実現できる」ことを許すという点で、その特定の実現である物理的状態よりも、ちょっとだけ抽象度が高いレベルで定義されなければならない、ということだ。

(戸田山、23ページ)

・・・ここで扱われる意味とは「言葉の意味」、言葉と対象物(事象)との対応関係でしかない。つまりココロという実体も必要としないし高い抽象度も必要としないのである。

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