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哲学的実在論

宮国さんの「『超越論的現象学的な自我」』は幻想」の前文(目次の前の部分)を読んだ(目次以降はまだ読んでいない)。

それらは皆、具体的・個別的経験から因果的に導かれた客観的認識、あるいはフッサール の”想像”の産物なのである。

「超越論的現象学的な自我」は幻想

ただ具体的経験(とりあえず経験と呼ばざるをえないのであるが)が現れたり消えたりしているだけであって、それが現れる「場」というものは後付けで想定されるものにすぎない のである。

「超越論的現象学的な自我」は幻想

もまったくその通りだと思うのであるが、

超越論的現象学的な自我という「場所」「領土」を想定してはならない。ないものを前提してしまっているからだ。

「超越論的現象学的な自我」は幻想

とは限らないのではないかと感じた。

科学哲学には、科学的実在論という考えがある。これは、

科学において措定される観察不可能な事物が存在するという考え方

伊勢田哲治
「科学的実在論はどこへ向かうのか」

である。これと同じように「哲学において措定される直接経験されない認識が存在する」と考えることもできると思うのである。私はこれを、哲学的実在論と呼びたい。

後付けで想定されるに過ぎないものを実在するかのようの語ってはいけないというルールは特にないと思うのである。科学哲学では、後付けで想定されるものを前提のように考える(理論の要素とする)ことをアブダクションと呼ぶように思う。

そういう意味では、「まったくその通りだと思う」と書いてしまったが、「具体的・個別的経験から因果的に導かれた客観的認識」ではなく、「具体的・個別的経験からアブダクションにより導かれたある哲学者の個人的認識」ぐらいの表現が妥当なのではないかと感じる。

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