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反事実的条件法と多世界解釈

私の関心は、量子力学の解釈論である。これは、コペンハーゲン解釈と多世界解釈どちらが正しいのかとか、より正しい解釈は何かとかいうものでは必ずしもない。解釈の正しさは実験では確認できないのだから(実験で確認できるならそもそも解釈ではなく科学的な理論・モデルと呼ぶべきであろうから)、正しいとか正しくないとかという判断基準には、解釈論にはなじまない。

量子力学は、我々の日常の経験とは異なる結果をもたらすものであるから、我々が日常的に使う言葉で量子力学を表すことはそもそもできるはずもない(話す必要がなかったことを表す言葉・単語がないのは当然であろう。)。それでも量子力学の言葉による説明が必要なので(説明がほしい人がいるので)、違和感があっても何か量子力学の解釈を書きたくなるのである。

反事実的条件法

様相論理・可能世界論では、現実とは異なる仮定を含んだ文の意味は、現実のこの世界と近いが異なる可能世界においてその命題が成り立つかどうかという主旨と考えればよいとされる。Wikipediaでは、

我々が反事実条件文を用いて「もし...だったとすれば、...だっただろう」と論じるとき、その主張の真偽は、その前件を満たすような最も現実世界に近い世界において、後件が真かどうかによって決定される。「近い世界」とは、できるだけ多くの事実を共有している世界、ということである。
例えば「2000年のアメリカ大統領選挙でブッシュが大統領にならなかったとしたら、ゴアが大統領になっていただろう」という文は、次のような主張を表現したものだと定式化することができる。「ブッシュが大統領にならなかった可能世界のうち、我々の現実世界に最も近い全ての世界において、ゴアが大統領になっている」。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%83%BD%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%AB%96

と説明されている。これは、事実に反する仮定を含む文の趣旨を解釈するにあたって、極めて妥当な考えであると私は感じる(個人的な感想です。)。

日常語の範囲ではコペンハーゲン解釈と多世界解釈に違いはない

その前提で(様相論理・可能世界論が妥当という前提で)、多世界解釈を考えてみよう。そうすると、多世界解釈は、コペンハーゲン解釈の「射影が起こる」の単なる言い換えと理解できることがわかる。

電子のスピンの場合、コペンハーゲン解釈では、「もしスピン1/2が測定されなければ(スピン1/2の状態への射影が起きなければ)、スピン-1/2が測定されただろう(スピン-1/2の状態への射影が起きただろう)」であるが、この日本語を様相論理・可能世界論で解釈し直せば、「スピン1/2が測定されなかった可能世界のうち、我々の現実世界に最も近い全ての世界において、スピン-1/2が測定されている」になる。これは、我々の現実世界に最も近い世界に、スピン-1/2の世界しかないという意味と同じである。量子力学においては、ある時刻まで同一の世界であったという定義で、様相論理・可能世界論の「現実世界に最も近い全ての世界」を厳格に定義することができる。このように、物理学で用いられるヒルベルト空間の考えを除き、一般的な日本語としての解釈においては、コペンハーゲン解釈と多世界解釈は同じ趣旨の言い換えであり、その意味に本質的な違いはないと考えられる(個人の感想です。読まれた方全員に同意を期待するものではありません。)。

コペンハーゲン解釈と多世界解釈の違いは、射影が起こるか起こらないかであり、射影が起こったか起こらなかったかを表す日常用語・単語は存在しないのであるから、一般人が理解する用語の範囲においては、コペンハーゲン解釈と多世界解釈の間に違いがないのはある意味当然とも考えられる。

形式が同じでも同じ意味とは限らない

加えて、コペンハーゲン解釈も多世界解釈も実験結果を予想するには同じ計算手順を用いる(同じ数式展開で計算する)のだから、同じ趣旨の解釈となるのは当然と考える方もいるかもしれないが、数式展開の形式(ルール)が同じだからといって、その解釈(意味)が同じになるとは限らない。そのことを少し例示したい。

Wkikipediaにあるように、

様相論理では一般に、標準的な論理体系に「~は必然的である」ことを意味する必然性演算子$${\Box}$$と、「~は可能である」ことを意味する可能性演算子
$${\Diamond }$$のふたつの演算子が追加される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%98%E7%9B%B8%E8%AB%96%E7%90%86

そして、その記号に公理と推論規則を追加して、様相論理の公理系ができるのであるが、これは標準義務論理と同じであることが知られていて、Wkikipediaでは、

フォン・ウリクトの初期の体系では、義務性と権利性は行為(acts)の特質として扱われた。すなわち、OA は「Aすべきである」、PA は「Aしてもよい」と解釈された。しかし間もなく、命題についての義務論理に可能世界意味論による単純で簡潔な意味論が見つかり、フォン・ウリクトもそれを採用した。命題についての義務論理では、OA は「Aであるべきである」、PA は「Aであってもよい」と解釈される。この義務論理を標準義務論理(standard deontic logic)と呼び、SDLKDDなどと略記される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%8B%99%E8%AB%96%E7%90%86

と説明されている。同じ変形規則に従う記号(同じ記号)が、「~は必然的である」と「~であるべきである」という異なる解釈を持ち得るのである。べき論・当為論(べきである)と事実論・存在論(である)は全く異なる趣旨である。従って、量子力学の計算手順も、趣旨からしてコペンハーゲン解釈、多世界解釈と異なる解釈を持ち得るかもしれない(繰り返しになるが、私の考えではコペンハーゲン解釈と多世界解釈は日常会話レベルの理解においては同じ趣旨・似たような意見である。)。

まとめ

私は、以上の考察から、物理学者や物理学に関心が強い一部の例外的な人以外の一般大衆に対する説明において、コペンハーゲン解釈と多世界解釈を異なる解釈として説明することは、無意味だろうと思う(個人の感想です。読まれた方全員に同意を期待するものではありません。)。

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