圧倒的スケール!1904年、セントルイス万博博覧会の旅
1904年に開催されたセントルイス万博博覧会にハマっている。
きっかけは、古道具屋で見つけた雑誌「Campbell’s Illustrated Journal」。
1903年、120年前にアメリカで発行された、セントルイス万博博覧会特集号。
これは!と迷わず買って帰った。120年前のアメリカにタイムスリップする。
セントルイス万博博覧会開催を翌年に控え、イベント概要や開催決定までの経緯、主催団体の紹介、大会ルールなどが書いてある。表紙が万博運営会社の社長というマニアックぶり。
イラストも多く楽しめる。
セントルイス万博博覧会、別名ルイジアナ購入博覧会。ナポレオンからルイジアナを購入して100周年を記念して開催されたのだ。1904年というと明治37年、日露戦争が行われている頃で、日本では戦時中だ。
公式ポスターは、アルフォンス・ミュシャ作。
ネイティブ・アメリカン(ジェロニモ族長と思われる)の物憂げな表情が印象的。
敷地面積は5平方キロメートル。東京ディズニーランドの10倍の広さがあり、1,500の建物が建てられ、期間中、約2,000万人が訪れた。
驚くべき規模!
まず、びっくりしたのが、雑誌に掲載されているメインのパビリオン18館のうち、最大規模の建物「農業館」。
縦600フィート×横1,600フィートと書いてある。183メートル×488メートル。建物の端から端まで500メートル近くある。農業館だけで東京ドーム2個分の広さ。デカすぎる。
メインのパビリオン18館の合計だけで東京ディズニーランドの敷地と同じくらいの面積になる。
電気館では、夜間のイルミネーションが行われた。
1904年に現地を訪れた永井家風が『酔美人』に書いている。
カスケード・ガーデンのライトアップも。
120年前に、この規模のイルミネーションがあったことは驚きだ。
でも、もっと驚いたのは、観覧車。
かなり巨大!
直径76m、高さ80m。36台のゴンドラがあり、なんと1台のゴンドラに60人が乗れる。
つまり、36台×60人=2,160人が乗車可能という、圧倒的スケール。
この観覧車は機械式で、フェリス技師が発明し、1893年シカゴ万国博覧会のために建造された。そして、1904年にセントルイス万国博覧会のためにミズーリ州セントルイスへ移設され、1906年に解体された。
あんなに大きな観覧車をシカゴからセントルイスまで移設できたことは信じがたい。トラックや飛行機がまだ存在しない時代、馬や蒸気機関車で運んだのか、相当な労力だったろう。
観覧車は、英語でFerris Wheel。「フェリスさんの車輪」と今でも言っている。
各国の売店などが集まる娯楽エリアを「パイク」と言った。
まなみ@ラグタイムさんのノート記事で、セントルイス万博をきっかけに作られたラグタイムの曲を教えてもらった。
「パイクにて」
On The Pike - James Scott (1904)
中央メインエリアのカスケード・ガーデンがテーマのスコット・ジョップリンの曲もある。
The Cascades - Scott Joplin(1904)
ジェームズ・スコットとスコット・ジョップリン、2人ともラグタイム音楽の大御所で、スコット・ジョップリンは映画「スティング」の曲エンターテイナーで有名な作曲家。2人ともライバル心があって、あいつより良いものをと、競い合ってセントルイス万博の曲を作ったのかもしれない。
日本からの出展として、日本館、日本村があり、観覧車の近くには金閣カフェがあった。
金閣寺を模した喫茶店は、池に面し日本庭園のなかにあった。人気が出ないはずがないキャッチーさ。ここでお茶して、観覧車に乗って金閣カフェを眺めたらもうお腹いっぱいかも。
日本エリアを詳しく紹介しているウェブサイトを見つけた。
日本から芸者さんたちが参加して盛り上げ、演芸場では歌舞伎が上演された。日本エリアは盛況だったという。
なるほど、地図でみると、日本のエリアは観覧車のすぐ脇にある。
雑誌「Campbell’s Illustrated Journal」に戻って、会場全体の計画図
なぜこの時代に空からのイラストが描けたのか?
答えは、気球に乗って写真を撮ったから。
公式フォトグラファーのジョン・F・バーンズが気球に乗って建物や敷地を写した、とある。
1903年といえば、12月17日、ライト兄弟が世界で初めて人間の操縦による動力付き飛行機の飛行に成功した。たった飛行時間12秒、飛行距離36.6メートル。でも偉業だ。
初飛行から遡ること半年以上前にこの雑誌が出版された当時は、空の乗り物としては気球、飛行船、グライダーくらいで、風まかせだった。
セントルイス万博博覧会では、空中飛行競技が計画された。地面から完全に離れていれば、乗り物の種類は問わない、と競技概要に書いてある。最高賞金は10万ドル。
もしかしたら、ライト兄弟はこの空中飛行競技を目標にしていたのではないかと想像している。10万ドルの賞金を狙って。
初飛行成功の5ヶ月後に万博は開幕したが、ライト兄弟が競技に参加したという記録は見つからない。出場していれば優勝しただろうか。
万博で初お披露目された無線電信技術に使われた塔もすごく大きい。東京タワーくらいの高さがありそうだ。
知れば知るほど、破格のスケールで開催されたセントルイス万博。壮麗で壮大な建物がとても美しくて、見ているだけで楽しい。残念ながら、ほとんどの建物は万博が終わった後に壊されてしまった。
開幕の1年前に発行された雑誌に建物の詳細な(写真のような)イラストが載っているわけで、1年前には建物が完成していたことになる。むしろ、以前からあった建物が再利用されたと考える方が自然ではないだろうか。
当時、万博に遊びに行った人はどのように感じたのだろうか。圧倒されただろう。全部を見てまわるのは、時間的、体力的にも到底不可能で、みんなヘトヘトに疲れていたかもしれない。
もしタイムマシンがあったら、今いちばん行きたいところは、1904年のセントルイス万博博覧会だ。当時の電気自動車に乗って、のんびり見てまわりたい。ホットドッグやハンバーガー、アイスクリームコーンは、この万博で初めて売り出されたそうだ。みんな片手に持って歩きながら食べていたのだろうな。新発売を味わってみたい。
最後に、1903年の頃を描いたランディ・ニューマンの曲をハリー・ニルソンの歌で。
有人飛行機がまだ飛んでいなかった頃の話。
"Dayton, Ohio 1903" by Harry Nilsson
遠い昔の歌を歌おう
緑にあふれ
ゆっくり時がすぎていた頃の
人びとは立ち止まり、君にごきげんようと言う
それとも、気さくにこんにちは
お茶でも飲みに来ませんか
ミセスと僕で
オハイオ州デイトンでの素晴らしい過ごし方
1903年、のんびりした日曜日の午後に
遠い昔の歌を歌おう
物事は進歩し、日々は静かに流れていた頃
空気はきれいで
みんなが君に親切だった
お茶でも飲みに来ませんか
ミセスと僕で
オハイオ州デイトンでの素晴らしい過ごし方
1903年、のんびりした日曜日の午後に
(拙訳)
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