💟第8話 安楽寺の小僧に-早期英才教育始まる!
🟡安楽寺の小僧に
父の急逝で三浦家は破産、一家離散となった芳聖は、しばらく岡崎市明見町の伝正院に預けられたあと、愛知県蒲郡市清田町の浄土宗西山深草派三河総本山「楠林山安楽寺」の小僧にやられることになりました。
🟡剃髪得度
芳聖は、大正2年(1913年)8月24日、楠林山安楽寺の富永慶法老師について剃髪得度し、名前も三浦慶定と改められました。
時に芳聖は数え年10才(満令8才11ヶ月)、小学校3年生の夏の日のことでした。
富永慶法老師
後に第88世 浄土宗 西山深草派 総本山 誓願寺管長
🟡早期英才教育始まる!
お寺の小僧にやられると言うと、いかにもみじめな運命の響きがするかもしれませんが、地元では富永慶法老師の高徳を慕って子弟の教育を依頼する資産家も多く、芳聖の兄弟子のほとんどは、地元の裕福な資産家の子弟でした。
論より証拠、芳聖のすぐ上の兄弟子・尾崎慶律氏(1902年生れ)は、地元・蒲郡町の町長および愛知県会議員を歴任した尾崎幸助氏の四男でした。
天照大御神の御子の教育計画には、いささかも誤算はありません。安楽寺は文教的にはレベルの高い理想的な生活環境だったのです。
富永慶法老師の経営する楠林山安楽寺は、当時、世にも稀なる峻烈なる道場で、毎日午前3時起床で約2時間、広い境内、本堂、釈迦堂、書院、庫裡などの掃除・雑巾掛けをしました。拭き掃除は、今と違って極寒の冬場でも冷たい水を使っていました。
掃除が終わって洗面、朝の読経、午前6時頃から長老の講義、講義の内容は曜日ごとに、三部経、論語、選択集、孟子、各祖師の釈文、文章規範、唐詩選など、今の大学でやるような内容でした。
🟡お経を覚える超記憶法
午前7時になると朝食、その後、裕福な資産家の子弟である兄弟子たちは学校へ行くのですが、家からの仕送りの無い芳聖は、師匠のお供をして法要・葬儀について行き、経文を読んでお布施を稼がねばなりませんでした。
法要・葬儀で経文を読むには、長いお経をいくつか暗唱しなければならず、記憶を司る脳細胞の能力開発が必須でした。
富永老師が芳聖に施した「お経を覚える超記憶法」のお蔭で、活性化した芳聖の記憶力は抜群で、この時に老師から受けた記憶能力開発後、一度聞いた事は忘れることが無かったのです。安楽寺は、芳聖の能力開発の場でもあったのです。
また、芳聖は少年時にベテラン和尚のお供をして法要・葬儀の場に臨み、宗教家(人類の指導者)として必要な「血の通った人間学」を学ぶよう計画されていたのです。
読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。