💟第20話 日曜院の住職に就任-遠祖の御陵探し始まる!
🟡恵照山日曜院の住職に就任
およそ2年間の兵役を無事に終えて除隊した芳聖は、大学には復学せず大正15年(1926年)12月1日、楠林山安楽寺の末寺である「恵照山日曜院」の住職に就任しました。
数えの23才(満齢22歳)、「禅空慶定和尚」の誕生でした。
学問で身を立てようと志していた芳聖が、大学には復学せず、数えの23才の若さで日曜院の住職に就任したのは、総本山誓願寺の管長に就任した富永老師から、法脈の隆盛のために住職に就任して力になって欲しいという要請があったからです。
一方、芳聖は、串呂の研究と三浦家系譜に記載されていた遠祖の御陵を探索して御供養したいという素志があり、両者の思いが一致したからでした。
🟡遠祖の御陵探し始まる
三浦家系譜には遠祖の御陵について下記のように記されてありました。
はじめての方は、事前に『三浦皇統譜- Wikipedia』を参照ください。
🟢所在が判明していた遠祖の御陵
第98代・小松天皇(興良)・・・静岡県磐田市神増原台上(菩提陵)
第100代・大宝天皇(美良)・・・愛知県岡崎市牧平町小金山
大宝天皇 皇后 佐久姫・・・・・・愛知県岡崎市牧平町小金山
🟢御陵が所在不明だった遠祖
第97代・興国天皇(守永)・・・猿田小高陵
興国天皇中宮・花山院茂子・・・記載なし
小松天皇皇后・元子内親王・・・記載なし
第99代・松良天皇(正良)・・・記載なし(後に青木文献で判明)
松良天皇皇后・綾子内親王・・・記載なし(後に青木文献で判明)
吉野朝第98代・長慶院法皇・・・播州西山
長慶院法皇の母・玉己姫・・・・記載なし
🟢船山御陵(上宿神社・菩提陵)・・・小松天皇、長慶院法皇
🟢遠州京丸・・・皇太后を葬る。詳細不明。
芳聖は、所在不明になっている遠祖の御陵を探して御供養したいという思いに駆られ、まず同年10月21日皇統譜に登列した長慶天皇(三浦家では長慶院法皇)の終焉の地・播州西山の探索を始めましたが、「播州西山」だけでは、なかなか見つけることが出来ませんでした。
興国天皇(守永)の御陵も、猿田小高陵だけでは、雲を掴むような話で、途方に暮れるばかりでしたが、そんなとき、朗報がやって来たのです!
🟠朗報「青木文献」来る!
住職に就任した翌昭和2年9月、代々三浦家に仕えていた中西久次郎氏(明治11年~昭和26年・青木和田尉盛勝の子孫)が、青木文献を持ってやってきたのです。
青木文献(別名千種文献)とは、豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が応永30年(1423年)と31年(1424年)に書き残した三通の覚え書のことです。
中西久次郎氏は、三浦家は長慶天皇の子孫だから、長慶天皇の御陵を青木文献に記載されてある「一本木万福寺」(⛩上宿神社)に制定いただくよう政府宮内省に願い出るよう芳聖に要請したのです。
芳聖は、三浦家の秘密は時期が来るまで極秘で!という父の遺言を守って、この要請に応じなかったので、中西氏は嘆息して帰りました。(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』)
この時、芳聖が見た青木文献の中に「松良親王の御坊塚」の所在地と「長慶天皇の皇女綾姫」の落ち行き先が次のように書かれてありました。
この時、松良天皇の御陵は、6歳の時、父・市次郎と一緒にお参りした「ご先祖の墓」(御坊塚、豊川市御油町の松並木附近)であり、その皇后綾姫の落ち行き先は遠州光明寺村(静岡県浜松市天竜区船明)である事が判明したのです。
南北朝の動乱期、戦国時代を経て、このような貴重な古文書が保存されていたことは、奇蹟的な事だと思います。
🟠松良天皇御陵を制定
🟠綾姫御陵(上臈塚)を制定
芳聖が静岡県磐田郡光明村(浜松市天竜区)に調査に出かけたところ、二俣から光明村に入るとすぐ船明と云う集落があり、そこに菊水の紋の付いた五輪の塔のある瓢箪型をした地元では上臈塚と呼んでいる塚を発見することが出来ました。
読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。