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三浦芳聖伝 39、天照大御神の御神諭(串呂哲学研究ノート№160)

1、切腹自裁を決意

昭和20年(1945年)8月15日、午後、大日本帝国政府がポツダム宣言を受諾して敗戦・降伏を決意し、米軍の無血占領が不可避である事を確認した三浦芳聖は、即日、名古屋へ出ましたが、その日は目的の東海北陸地方総監に会う事が出来ませんでした。

芳聖は、翌日やっと東海北陸地方総監「小畑忠良」氏に会い、声涙共に下って言々切々と訴えましたが、もはや如何ともする事の出来ない事が分かり、警察のお世話になって、17日萩村に送り届けられ、御油警察署長から厳重監視をして頂く事になり、実兄の三浦延治は、小畑総監の依頼を受けて芳聖を説得に来てくれました。

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(平成15年12月、特別養護老人ホームが出来た萩町上近久)

芳聖は、それでも、中央の同志が局面を転換してくれる様な気がして期待していましたが、22日、実兄の三浦延治から連絡があり、「在京同志のあらゆる苦心も水泡に帰し、結局米軍の無血占領となるが、将来日本再建のため大切であるから、飽くまで自重して軽挙妄動せぬように」との事でした。

かくして芳聖は、国体信念の上から臣子の本分として切腹してお詫びする以外に道は無いという結論に到達しました。

私の決心は此処に於て明確に定まりました。23日、家内子供を家内の実弟の所へ送り届けました。私は大正2年8月24日10歳にて剃髪得度して満16年間後、昭和4年8月24日、26歳にて出山還俗し、それから満16年間後の昭和20年8月24日、42歳の大厄年に愛知県宝飯郡萩村寓居の祖霊舎前にて、神武天皇即位以来2605年の皇国の歴史と共に、永遠に霊界(高天原)に帰らんとして、日本刀を以て切腹自裁せんとしたのであります。
(三浦芳聖著『姓名鑑定秘法』11頁/1955年、要約)

2、天照大御神の御神諭

芳聖が、切腹自裁せんとした、その間一髪の時、全身が電気に触れた時のように痺れたかと思うと、約3尺(1メートル)前方に等身大の女神のお姿の天照大御神がご出現になられ、「天照大御神である!」と仰せになられたので、その神々しい御威厳に打たれ、芳聖は思わず平伏しました。

然るに刃(やいば)を将に腹に突き刺さんとした間一髪の時、全身電気に触れた如き状況となり、神棚より新築の檜作りの家が乾燥するときにピシン、ピシンと音を立てますが、丁度これを数倍したような音がピシン、ピシン、ピシンと続いて九度し、赫々と見開きたるこの肉眼に、いとも鮮やかなる、とても筆舌し難き神々しい気品高き天照大御神を拝し奉り、殆んど無意識に刃(やいば)を下に置いて平伏致しました。その時、天照大御神には絶対神秘霊妙なる神音を以て、九度も繰返して、口語体に直しますと概ね次のような御神諭がありました。
(三浦芳聖著『姓名鑑定秘法』11頁/1955年、要約)

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汝は、神皇正統嫡皇孫、天津日嗣のスメラミコトであります。私に勝手に死ぬことは許しません。

汝は、往昔、大宝天皇が祈念せし、五皇一体の再現・八幡大明神である。その八幡大明神として、この世に出現した使命を全うする迄は、勝手に死ぬことは許しません!

現在、日本は、かかる浅ましき有様となりましたが、これより36ヶ年後の昭和56年・辛酉年・正月元旦には、往昔・神武天皇が橿原の宮に即位せし如き状況が世界的な規模に於て行われる。

この36ヶ年を四期に分けて、第一期の9ヶ年(昭和20年~昭和28年)は、あらゆる難行苦行をして、己が神皇正統・天津日嗣のスメラミコトに絶対間違い無いという大確信に到達しなさい。

第二期の9ヶ年(昭和29年~昭和37年)は、これまで研究してきた神風串呂を解明して、己が神皇正統・天津日嗣のスメラミコトである事を天下に公表しなさい。

第三期の9ヶ年(昭和38年~昭和46年)は、神界伝法の特別秘法祭祀を以て往古の神武天業恢弘の神業を厳修しなさい。

この期間は世界的大変転の時期にて大艱難大苦心、ある時は餓死寸前を彷徨し、ある時は死一歩前の危険に身を晒すが如き事あらんも、飽くまで全人類は勿論、山川草木悉皆に至るまで、その処を得せしめざれば止まざるの不退転の覚悟を以て邁進する時、必ず天佑神助は降る。

第四期の9ヶ年(昭和47年~昭和55年)は、神国再建を成し遂げ、昭和56年に至り、天皇御稜威の下、全世界の平和を克ち得て、皇紀2641年・辛酉年正月元日(昭和56年2月11日)には、往昔神武天皇が橿原宮に即位せられ、六合開都・八紘為宇の大宣言を為されし時の如き大盛事が世界的規模にて行なわれる。

依って汝は此の大聖業を完遂し、尚その後、百歳まで天寿を全うして此の大聖業の完きを期するのであるから、この天与の使命を忘れて私に勝手に死ぬ事は許されない。

之より後、ありとあらゆる大試練が与えられ又その反面には内外の悪神邪霊の総攻撃を受くるならんも、能くこの大艱難・大苦辛に堪えて天与の使命を全うせよ。

(三浦芳聖著『姓名鑑定秘法』11頁/1955年、他の資料要約編集。読み易くする為、改行、句点を補う等、編集致しました事をお断りします。)

*コラム・超世志のここだけの話
 芳聖への天照大御神の御神諭は、享徳3年(1454年)、大般若六百巻を念書された大宝天皇への御神諭以来、491年ぶりでした。
 私は、この天照大御神の御神諭があった事は間違いない事だと思います。三浦芳聖が、この件で、虚言を弄する事は絶対に無いからであります。
 結果的には、この御神諭は実現しませんでした。神風串呂を公表しても、日本人が、神風串呂の重大性を理解する事が出来なかったからであります。
 その結果、神界の大計画が反故になり、神国再建の又とないチャンスを逸することになったのです。

3、萩村の寓居の神風串呂

【参照】皇大神宮内宮と萩村寓居の神風串呂 (№104)
「⛩皇大神宮内宮」-「御堂山」-「三浦芳聖の萩村寓居」-「高松」-「聖岳」-「聖天」-「御幸ヶ原町」-「入定」

萩と内宮入定

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』89頁)

【参照】三浦芳聖の降誕・仮寓・晩年の住所を貫く神風串呂(№42)
「正善」-「天神」-「大門」-「天王町」-「三浦芳聖降誕地・牧平大門」-「三浦芳聖の萩村寓居」-「三浦芳聖晩年の住所」

降誕地萩村豊川

(三浦芳聖著『神風串呂』第177号61頁)


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情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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