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💟第10話 向学の念やみ難く-単独寒行の夜は更けて!
🟡睡眠3時間で中学講義録を独習
小学校を優等で卒業した芳聖は、向学の念止み難く、兄弟子達に倣って、上級学校への進学を志していました。
富永慶法老師が上機嫌の時におねだりして、「5年でやる中学を2年でやるなら15才になったら暇をやる。」という進学許可を引き出した芳聖は、中学講義録を取り寄せて、中学4年編入合格を目指して猛勉強を開始しました。
それは、大正4年(1915年)数えの12才(満10才・小学5年生)の時の事でした。この当時、上級学校に進学する児童の割合は一割以下で、たとえ条件は厳しくとも、進学の許可が与えられ、勉学の為に暇が貰えるだけでも幸運だったのです。
こうして芳聖の猛勉強が始まったのですが、午前3時起床の厳しいお寺の修行や、法要、葬儀、作務などをこなしながらの学習は困難を極め、毎晩、勉強中に居眠りしては、学習計画が進まぬ苦難の日々が続いたのでした。
上級学校への進学を熱望していた芳聖は、試行錯誤の末、前人未到の超居眠り防止方法を創意工夫して、遂に睡眠3時間の生活が可能となり、猛勉強につぐ猛勉強の末、ついに「中学講義録」の独習が完了し、中学4年編入を可能にする学力を身につけることが出来たのでした。
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🟡単独寒行の夜は更けて
上級学校への進学を実現する為のもう一つの重要課題は学費の工面でした。もちろん、芳聖は進学に備えて倹約生活を実施し、わずかな収入の中から貯金していました。
浄土宗西山深草派の和尚の資格を取得するには、進学先は京都の中学校という事になるので、学費以外に旅費、下宿代、食費などの生活費を用意しなければなりませんでした。
僧侶の芳聖が現金収入を得るためには、お布施を頂く方法しか有りませんので、老師の許可を得て蒲郡市中を単独寒行することになりました。
芳聖は、小学5年生の大正5年〔1916年〕から大正7年〔1918年〕の3年間、1月6日から2月3日の寒中に、夜中の12時から朝の7時まで、蒲郡市街を廻って単独寒行を敢行したのでした。
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恵まれない安楽寺の少年僧侶が、上級学校進学の学費を得るため、深夜の単独寒行をしている事を知った地元の方々の温かいご支援により、芳聖は、当時のお金で3百円(現在の100万円位に相当か?)の金子を用意することができました。
*コラム・超世志のここだけの話
義理堅い三浦芳聖は寒行の時にお世話になった蒲郡市の人々に恩義を感じ、晩年、蒲郡市出身の大相撲の力士「玉の海(玉乃島)」を応援していました。玉の海が、第51代横綱になったのは、彼の努力の賜物ながら、八幡大明神芳聖の霊的サポートも大きかったと思います。
そして、大正7年(1918年)3月、芳聖は青雲の志を抱いて上洛し、見事中学4年の編入合格を果たしたのです。
🟢老師が出した厳しい条件のお蔭で芳聖は、睡眠3時間の生活が可能になり、独習の習慣が備わったのです。
💟5年制の中学を2年でやれ!という富永老師が出した厳しい条件は、天照大御神の御子教導計画に基づく神謀援慮の一環だったのです。富永老師は、台本通りに台詞を読んだのです。
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