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💟第30話 芳聖の結婚(1)親友の妹との奇妙な縁談


🟡親友危篤の知らせ

昭和2年(1927年)の12月の初め頃、愛知県蒲郡市の日曜院に、三浦芳聖の中学時代の親友・中川長一なかがわちょういちさんが、肺結核で余命幾許いくばくも無いという電報が届きました。

当時、青年住職だった芳聖は、お寺は院代(実弟)に任せてあったので、直ちに中川家(京都市下京区高倉通り)へ見舞いに行き、病床に伏す親友の看病をしていました。

中川家は、その当時、京都市下京区五条間之町あいのまちで「末広すえひろ」という呉服屋を経営する老舗しにせで、全部で6店舗を有し、かなり裕福な資産家でした。

京都市下京区五条間之町(YAHOO!JAPAN地図)

中学時代に芳聖は、この中川長一さんと親しく交際していて、日曜日や夏休みなどの休日に、時々中川家を訪問して、長一さんの両親から、御馳走にあずかったり、着物をプレゼントされたり歓待されていました。

中川長一さんは、芳聖の掛け替えのない無二の親友で、中学卒業後も交際は続き、将来、芳聖の妹(ふみ)を長一さんの嫁に!という約束までしていた昵懇じっこんの仲でした。

🟡親友の妹との奇妙な縁談

芳聖は、この無二の親友の病気に心から同情して、伝染病に感染することもいとわず、同室で寝起きして献身的に看病したのですが、残念ながら長一さんは遂に危篤きとく状態となり、その今わの際に、芳聖の手を握って「俺が死んだら、妹の福江ふくえを嫁に貰ってくれないか!」と嘆願したのでした。

芳聖が、困って一瞬躊躇ちゅうちょしていると、長一さんの両親が「貰ってくれなくてもいいから、喜ばして死なしてやってくれ!」と耳打ちしたので、芳聖が「妹を嫁に貰ってやるから!」と言って手を握り返すと、長一さんは、にっこり笑って息を引き取ったのです。昭和2年(1927年)12月15日のことでした。

芳聖は、この福江さんに、このときに始めて会ったのですが、福江さんは、丁度「山本富士子」のような絶世ぜっせいの美人で、今小町いまこまちと呼ばれるほどの器量良しでした。

山本富士子- Wikipedia

義理堅ぎりがたい性格の芳聖は、親友との約束を反故ほごには出来ないと考え、長一さんの葬儀を済ませた後、お寺に戻って話したところ、「そんないい縁談はなしは無いじゃないですか!」と云う事で、

檀家総代だんかそうだい三名が京都へ出かけて行って、大本山の管長になっていた富永老師の許可を得てから、中川家に出向き、この親友の妹との奇妙な縁談が本決まりとなったのです。

🟡盛大な結婚式が行われた

そこで、芳聖の25歳の厄年やくどしが終ってから昭和4年(1929年)に挙式ということになりました。

この間、昭和3年(1928年)5月、済南事変が勃発し、同月9日、芳聖に召集令状が来たため応召し、北支天津に派遣され、8月山東省に転戦し、11月に内地帰還、招集解除となり渥美勝先生の葬儀などがあり、12月15日には、長一さんの一周忌も済みました。

昭和4年(1929年)1月16日、京都市下京区の中川邸で、芳聖の方は、檀家総代三名、親戚代表一名が参加して盛大な結婚式が行われ、翌1月17日、芳聖は、京都市下京区宮川筋二丁目の中川家の別邸で福江さんと最初の一夜を過ごしました。

そして、2月3日の節分が済んだら、花嫁の福江さんは、蒲郡市の日曜院へお輿こし入れということを約して檀家総代と一緒に日曜院へ帰りました。芳聖の数えの26歳(満齢で24歳)のことでした。

この項、次号に続く

💟第31話 芳聖の結婚(2)絶家再興計画に巻き込まれる
🟢天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録

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