💟第4話 厳格なる躾教育を施す-袴とニンジン
🟡厳格なる躾教育を施す
三浦家は、大宝天皇(美良)が牧平町大門に住居を定めた享徳3年(1454年)以来続いている旧家(実は神皇正統家)であり、母の里・河合家は尊良親王の第二皇子・基良親王(良玄法親王)を開基とする旧家(実は南朝宮家)で、
元子の祖父・河合英輔(幼名・和喜治)は、岡崎藩と豊橋の三河吉田藩の殿様に学問を教える大学者であり、両家とも庄屋格の格式の高い家柄でした。
従って、お辞儀の仕方から襖の開け閉めなどの礼法を始めとする躾教育も厳格に行われていました。
🟡袴とニンジン
また三浦家は奥三河の山村にありながら、家格を重んずる家柄でありましたので、三浦家の子供たちは、豊富小学校時代、始業式や祝祭日などの「式典」のある日には、必ず袴を着用して登校することになっていました。
ところが、当時、袴を着用して登校する児童は、三浦家のほかには無く、目立つのできまりが悪いし、上級生にからかわれるので、家を出るときには着用して出るものの、登校途中に脱いで風呂敷に包み隠して登校したという逸話が残っています。
閑話休題、芳聖の母・元子様は、子供の教育には特別厳格であったと聞いています。
それは、五ヶ年半もの長期間、観音様に熱祷祈願を籠め、六百年前のご先祖様のご降誕記念日に、一日も違わずその再現芳聖を出産したという、この一事を以ってしても、普通凡庸の気性の方ではない事が窺い知れると思います。
従って、子供の躾も真に厳しいものであったようで、たとえば、芳聖が「人参は嫌いだ、食べたくない!」と言ったところ、その後、来る日も来る日も三度三度、普通に食べられるようになるまで人参のおかずが続いたそうです。
以上は、ほんの一例ですが、芳聖たち三浦家の子供たちは、天照大御神の子育て計画のまにまに、五皇一体の再現・八幡大明神の幼年時代の教育係である「母・元子」の徹底した厳しい躾で育てられたのです。
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