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【短歌一首評】朝雁よ つがひを群れを得て我はあまたの火事の上を飛びたし/七戸雅人

朝雁よ つがひを群れを得て我はあまたの火事の上を飛びたし
 /七戸雅人「果樹園の魚《うを》」『羽根と根』創刊号

大意を取れば、孤独な〈我〉が地上から朝雁の群れを見上げ、その一員となって自分も空を飛びたいと思う、となろうか。

〈朝雁〉〈我〉〈あまた〉〈火事〉など文節の頭に顕われるA音の軽やかさと、〈よ〉〈〜を〜を〉〈〜の〜の〉という文節の末尾に隠されたO音の重たさが、あたたまった空気のような浮遊感を醸し出す。
〈朝〉という時間とあいまって、空の上から見下ろす〈あまたの火事〉には凄絶なまでの美しさがある。

しかしなぜ〈火事〉なのか、と思うときそこには露悪のほのめきも見えてくるし、つばさを得て、ではなくて〈つがひを群れを得て〉であることのねじれも決して見逃すことができない。
実のところこの歌は、素直に孤独を嘆く歌ではないのだ。

〈つがひを群れを得て〉という表現は奇妙だ。
〈つがひ〉の相手や〈群れ〉の仲間を得たいのではない、〈つがひ〉や〈群れ〉に入りたいのでもない。他者を対等な個人として扱わず、ひとまとめにして自分の付属物のように手に入れたい。
それは、他者に対する姿勢としてはずいぶん傲慢であるようにも思える。

つまりこのひとはほんとうは、番うことや群れることが自分を孤独から救ってくれるなどとは思っていない。

〈朝雁よ〉という呼びかけもそう。
朝雁という雁がいるわけではない。
朝と夜では様相が違うかもしれないが、雁は雁のはず。
しかしこのひとは、今この朝に自分の目に映った様相しか見ていないから、〈朝雁よ〉という呼びかけをする。
雁そのものには、別に興味はない。

では朝雁になどならなくていいのに、と言ってしまうのは浅慮だ。
〈〜たし〉という一見能動的な形で表される願望を〈我〉が抱くのは、いや、抱かざるを得ないのは、この歌の世界観には他の選択肢がないからなのだ。
ここでは、つがいの、群れの一部であることが飛ぶための必要条件であり、それ以外の飛翔の方法はない。

「つがひと群れを」あるいは「つがひや群れを」ではない、〈つがひを群れを〉というリフレインが示唆するのは、つがいと群れの連続性だ。
群れを構成する単位は個体ではなくつがいであり、つがいになれない者は群れにも入れない(※1)。
番うという営みは一対一の個人的な領域にはなく、集団の圧力の下にある。

山田航は穂村弘の歌について、社会秩序を体現する「警官」に追われつつ恋人と二人きりで世界から逃避するといった幻想が頻出することを指摘する。(※2)

対して七戸の歌は、恋愛や家族愛が社会への抵抗となるといった幻想とははじめから無縁の場所に立っている。

ひとりでは飛べない。
孤独な者は地べたを這いずっているしかない。
自分一人の力を超えた力は、集団からのみ齎される。
そして地上とは、〈あまたの火事〉に襲われる場所。
たとえひとりでいることを望んだとしても、火事に追い立てられる。
そういう世界なのだ。

目をふせて葡萄の棚の下にたつわれを子鹿と見紛へたまへ
きみも来よ 建物がみな雨どいを銃身のごと向けくるなかへ
 /七戸雅人「花になりたかった人の手順」『本郷短歌』第三号

同じ作者の別の連作から引いた。
学校の遠足とおぼしき情景の中で、やはり集団から疎外される〈我〉の孤独を詠う連作である。
ひとりでいることが本質的に孤独なのではなく、〈群れ〉の注視のもとに晒し者にされることが孤独なのであり、だから〈われを子鹿と見紛へたまへ〉と念じる。
〈建物がみな雨どいを銃身のごと向けくる〉が秀逸な見立てに留まらないのは、〈群れ〉の中に居場所を持たずひとりで彷徨い出てしまう者に対していっせいに牙を剥く世界を鋭く捉えているからだ。

〈きみも来よ〉の歌ではそれでも、他者を孤独の世界に引きずり出そうとする姿勢が見られるけれど、〈朝雁〉の歌にはそれもない。
孤高とか高踏とかいった選択肢は、この歌の世界にはない。
たった一羽で天高く飛翔することのできる鳥はこの歌の世界には存在しない。
孤独であり惨めであるか、集団の力を借りて高みに立つか。
このひとはできるものなら後者になって、集団に紛れ込めない者たちを襲う数々の苦境を軽々と飛び越え、それをただ興あるものとしてのみ眺めたい。
身も蓋もないといえば、身も蓋もない。

それなのに〈つがひを群れを得て〉と言ったそばから〈我〉が顔を出す主張の強さ。
そもそもこの文体そのものがだいぶ高踏的ではないか。

孤独なら孤独でいいと貫くこともできない。
自分もみんなと同じになりたいし、みんなと一緒に他者の苦境に高みの見物を決め込みたい。身も蓋もなくそれを願いたい。
それなのにどうしても折ることができない〈我〉がある。

自分ひとりを恃むことも、孤独から救われる道も信じることができないという、なんという絶望的な孤独なのだろう。

朝雁よ つがひを群れを得て我はあまたの火事の上を飛びたし
 /七戸雅人「果樹園の魚《うを》」『羽根と根』創刊号

2018/07/22 川野芽生

※1 生物学的に鳥の群れがそういうものであるかといえば、やや違うのだろうが。

※2 穂村弘・山田航『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』(新潮社、2012年)、26-29頁

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