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2回目のバースデー

今年は10月24日~30日に「ACE WEEK」が開催される。自分はブラックリングを買った日を記念日に決めて、ひそやかに祝うようにしているのだ。

ACEWEEKとは

AceWeek(旧Asexual Awareness Week)は2010年にSara Beth Brooks(セラ・ベス・ブルークス)によって開始された、アセクシャルの認知度向上のための活動です。
・アセクシャル、アセクシャルのグラデーション(Ace Spectrum)などに
 ついての知職を社会的に上げる。
・当事者を援助して、一人じゃないよ!というメッセージを広げる。
・性行動や恋愛は皆が思っているように当たり前なことじゃないという
 メッセージを社会に広げる。
・LGBTQのグループや団体などが、Aセクに関する社会的な問題にも
 取り組めるように活動する。
 といったことを目的とし、当事者の交流会イベントの開催、講座やレクチャーの開催、YouTube・ブログ・SNSなどでの情報発信、アートやアクセサリーなどでの表現、といった活動を、毎年10月末に一週間に実施しています。
                  (Ace Week in Japan HPより引用)

そのことでブログをあさっていると、昨年の記事を発見したので
改めて掘りおこしてみることにした。

Aセクシャルについての本を読んで以来、情報を集めている。
今月、10月11日は「カミングアウトデー」、25日からは啓発活動「ACE WEEK」が始まるらしく、まだまだ知らない記念日がたくさんある。

過去の長い歴史の中でもLGBTQ+、ACEは存在していたし、現代にいたるまでいいも悪いも日々刻々と変化しているようだ。
大学で卒論を書くときに必死で情報を集めながら、性別の定義やラベルの多様さに驚いた。しかし同時にそれが多すぎるがゆえに(自分も含めて)悩みの種である人もいる。こういったラベルを持った人同士がネットでつながり一つの世界を作っていることも知った。
セクシュアリティをめぐる情報、そのスピードは早く、日々その変化を追いながら今でも勉強中である。

この日に合わせたというわけではないが、昨日はとあるものを見つけに雑貨屋さんに寄る。
あてもなく近場のショッピングモールをまわり、シルバーアクセサリーの店にたどりついた。Ace Ringを買った。通販で検討していたものの、指輪なのでお店で付けてみながら買うことにした。店員さんに聞きながら色々合わせていると、リングの太さ・コーティングも施されたしっくりきた一品が見つかった。

今回は試しに買いたかったので安く収めたけれど、金額がゆるせば6000円弱のクロスのデザインがあってそれも欲しかった。
ちなみに指輪のつけ方も言われているところによると、素材デザインは問わないもののブラックリングで、右手中指にすればいいそうだ。

このリングが自分にはしっくりくる。見せるためというより今は自分だけにわかるシルシのようなものだろう。
そんなわけで10/12は2回目の新しい自分がうまれた記念日にきめた!「ACE Birthday」と呼ぶことにした。
強く主張したいときはリングの太さで強弱がつけられそうだし、SNSなどでAce ringで調べてみても参考にもなりそう。

性自認がはっきりある今だからいえるけれど、それでもリングをつけてもしっくりこない日もあるのかもしれない。それならそれで執着とか意地でつけるものじゃない。ラベルもリングにしてもかたくなに守ることが本質ではないのかなとも思う。しっくりくるという気持ちにしたがって、今の自分に合うものを身に付けている。

来年もこの日を忘れずに。
変わっていってもいい。
自分らしさをだして生きていけますように。
                           (2020.10.13)


「アセクシャル」を自分のラベルとするかどうか、よりつよく意識するようになった本がある。『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』(著:ジュリー・ソンドラ・デッカー 訳:上田勢子)である。
アセクシャルは基本的には性的接触を求めないと書かれていることが多い。けれど同書によるとアセクシャルといってもグレイゾーンがある実態も書かれていて、自分の認識と答え合わせをするようにページをめくった。

ラベルをつけたいわけじゃなかった

自分はQueer、ノンバイナリ―、クエスチョ二ングだ。そして性的嗜好はアセクシャルであると「思っている」。…それというのも昔ほど性別を表に出したい気分ではなく、今心地よい状態が自分の「性別」なのだ。窮屈ではない。時代の流れも後押しして意識が変わりつつあるのもたしかだろう。

過去を振り返って自分で自分にラベルを貼っていた頃はあったけれど、それもそんなにいい気分ではなかった。ラベルをつけたがるのは他者であって自分ではない。ラベルとは他者から一方的な攻撃をくらわないための抵抗するためのものだと捉えている。

変わることを恐れずに

つけはじめて1年が経つ。その細くて華奢でビンの栓みたいなリングは、武骨な自分の中指になじみ性別がどこにもない感じがしてしっくりくる。「自分だけわかっていればいいよね」みたいな感じで、それでいいやと思えてくるから不思議だ。

セクシュアリティにおいて、「可視化する」ことがいかに大切なのか。「レインボーフラッグ」は世間でも認知されてきているが、「ACEリング」は認知度はまだあまりなく、当事者だけが示すアイコンみたいなものだ。

可視化することを支持する一方で、意地や執着でラベルを選びつづけることもそれはそれで、自分の思う「性別像」とは違うのかなと思う。

性別のあり方って、必要性のある中でもYESもNOもどちらもある状態がいいなと思う。性別を言いたい人は言えばいいし、言いたくない人は言わなくていい。身体と心の性の違いを言いたい人は言えばいい。だからラベルがないこともひっくるめて自分の「性」だと捉えている。


今年で2回目の記念日。
12日の夜くらいは静かにしっぽりとお祝いすることにしよう。