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空想家の点つなぎ

物心つく前の、子どものころに読んでいた本なんてほとんど覚えていません。けれど、ここさいきん、ある一冊を思い出しました。点つなぎで絵を作る本。たしかこんな本でした。最低限の背景に無数の黒い点が打たれていて、それぞれの点の近くに数字が書かれている。1の点から2の点へ、2から3へ……と、若い順から点を線でつないでいくと、ひとつの絵が完成する。ぼくはどんな絵を見たんだっけね。

 さいきん読んだ小説の影響で、点つなぎの本のことを思い出しました。連想が働いたんでしょう。その小説は『象と耳鳴り』。作者は恩田陸。まぁ有名ですわな。ほぼ四半世紀前に出版された、連作ミステリ短篇集です。

 『象と耳鳴り』の表題作は、この短篇集の性格を端的に現しています。“あたくし、象を見ると耳鳴りがするんです”ある婦人がこの科白を発す。視点人物たる関根多佳雄が、科白に対する解釈を考える。分量としては10ページ強の小品。『象と耳鳴り』は短いページ数の作品が多く収められたアルバムなのですが、とりわけこの短篇は短いです。

 “象”と“耳鳴り”という、近くて遠いふたつの点を、いくつかの中継地点を通りながらつなげきる。そして、終点とさらにつながる点はないかと、多佳雄がさらなる推理をはじめたところで、物語が終わる。本作は、短篇集の作品群の基本構造そのものです。題材のとりかたに違いはあれど、短篇集のうちの多くはこの形式に則っています。まさに基準点。表題作であるだけのことはあります。

 形式が同じなら、ほかの作品を基準にとっても一緒なんじゃないのと思い、ほかの作品を基準にして考えてみたのですが、どうもしっくりきませんでした。たとえば、「給水塔」は基準にするにはおそろしすぎる。「待合室の冒険」や「机上の論理」の知己と線を結ぶには、なにか中継点を求めてしまいます。「曜変天目の夜」「廃園」も同様。

 知己とおそろしさのバランスでいえば、「誰かに聞いた話」や「海にゐるのは人魚ではない」が中継地点として適切でしょう。しかし、前者にはほかの短篇が持つくらくらする妖しさが足りない。後者は、基準にするにはすこし複雑が過ぎる。この短篇や「ニューメキシコの月」は、アルバムに馴染んだころに読むことで真価を発揮すると思っています。

 点つなぎの話に戻ります。多佳雄をはじめとする関根家の人びとは、本短篇集で多くの推理をみせてくれます。しかしそれは確証のある推理ではありません。いくつかの短篇で、推理により導かれる真相は、暗示されるに留まっています。推理を支えるのは動かぬ証拠ではなく、点つなぎの推理によってもたらされた、空想家たちの確信です。あるべきものがあるべきところに収まった感覚が彼らの解釈を肯定します。

 そして、彼らはときに解釈をしすぎます。推理の真相、終点となるべき点から、どこか別の点を探して、線を引こうとする。その作業は、やろうと思えば、できてしまうものでしょう。確信がある限り、あらゆる推理は続く。際限はない。本作の最後に収められた短篇「魔術師」は、まさに推理の際限のなさを象徴した作品です。あらゆる出来事が連関する世界では、何かの結果が別の何かの原因になる。ぼくらが暮らす場所には、そうした因果のネットワークがあり、あるいはネットワークを統合する“誰か”は存在するのかもしれない。

 ですが、これ以上の点つなぎは、推理小説の枠組みを超えている、とぼくは思います。推理に終点はない。ないことを知ることしかできない。人間は全知全能にはなれない。わからないことがなくなることはない。物語は、点つなぎを終わらせることはできない、終わらない点つなぎに「納得」はない。「魔術師」は、推理小説が推理小説でなくなる境界の手前で足を止めた作品です。しかし、曖昧な境界の位置を近づくことで示しているように思います。

 点つなぎはおもしろく、おそろしい。おそろしさに飲み込まれすぎないよう、しかしおもしろさを忘れぬよう、ミステリを読んでいきたいもんです。点つなぎの本みたいに、思いがけぬ思い出になるかもしれないしなー!


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