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ただ歩くだけの話。

 ちょっと歩こう。そう思った理由のうちの半分はマックのてりたまが食べたかったから。
もう半分は、今日は明け方にとんでもない悪夢と金縛りに遭って、睡眠の質を良くするにはちょっと身体を動かしたほうがいいな、と思ったからだった。

 自転車に乗れなくなって、2ヶ月が経つ。
 耳管開放症が悪化して、結構な頻度で目が回る。自転車に乗ってる時に平衡感覚を失って崩れ落ちること2回。自分が怪我する分には構わないけど、万が一車道に倒れて他人の人生を引っ掻き回したらやばいな、と思って、当面乗るのを止めることにした。お気に入りの青い自転車は、マンションの駐輪場で、花粉に塗れるままになっていて、自転車でなぞってきた道を、今は歩いて移動している。

 歩くのは楽しい。音楽を聴きながら、たまにそれに合わせて鼻歌を歌いながら進めるし、自転車はある程度のスピードで漕ぎ続けないと倒れてしまうけど、歩くペースは気分で変えられる。特に、今日みたいに何にも時間の制約のない時には、ずっと気楽だ。

 必死に周りに馴染もうとしながら働いて、身体を壊して、そこからまた何とか復活しようとしているのに、今度は別のところからほつれていく。やってられないなぁ、と思う。一番調子が悪かった時からちょうど1年くらい経つ。あの時は水を飲む時とトイレに行く時しか起き上がれなかったから、まあ、それよりはマシか。でも一番悪い時と現在を比較して自分を慰めながら生きていくのもなんだかなぁと、歩きながら考える。パチンコの向かいにラブホテルが軒を並べるエリアを歩く時は、なんだか悪いことをしている気持ちになる。その一画を抜けると歩道橋。階段を登ると、高速道路を見下ろすことができる。手すりの上にさらにフェンスが張り巡らされている。そりゃそうか。でも、多分、その気になれば、登れてしまう高さだな、と横目に測りながら渡る。

 狭い路地から公園に入って、そのまま公園を突っ切っていくとかなり近道になる。こういうのは自転車に乗っていると気付けないし気付いても入れないから、歩くようになってから見つけた。こういう時に、歩くのは楽しいと思えるので、自分の能天気さにちょっと笑う。

 夕方だから、部活帰りの学生や、保育園の送り迎えのお母さんの自転車に追い越されたりする。もうあんまり落ち込まないし、この先一生自転車に乗れないっていうわけでは多分ないけれど、ああ、やっぱり速いな、と思う。1人で生活しているわたしは、自分の都合さえどうにかなればいいけど、今わたしを追い抜いて行った女性は、多分この後、この先にある保育園に行って、子ども用のシートに自分の子どもを乗せて、家まで帰って、そこから夕ご飯を作って、家族に食べさせて……っていう目まぐるしい時間が待っているんだろうな、なんて、勝手に考える。そのための1分1秒を削り出すように走っていく電動アシストつき自転車(子ども用座席付)を見送りながら、想像して勝手に絶望する。わたしは、わたしひとり分のことで手一杯なのに、世の中には自分以外の人生も乗せてあんなスピードで走ることが出来る人間もいるんだな、って。
 その自転車は、あっという間にこの先の交差点を右折して、わたしの視界から消えた。

 歩くことと、考えることは相性がいい。そんな文章を昔読んだことがある気がする。もう一度読みたいけどタイトルは忘れた。でも、多分それは本当。その代わり、歩いていると次から次へとどうでもいいことが頭に浮かんで、どんどん流されていくから、何かを深く考える時間には、あんまり向いていないかもしれない。まあ、そもそもわたしの脳みそがそういうことには向いていないだけかもしれないけど。

 マックで無事にチーズてりたまにありついて、飲みかけのジュースを片手に店を出た。ジャンクフードの言い訳にもならない野菜生活を時折すすりながら、来た道を歩いて戻る。来る時に渡った歩道橋にまた登ると、パチンコ屋の看板の向こうに、赤い月が見えた。それだけで嬉しくなっちゃう自分の単細胞さが、ぎりぎりこのフェンスを越えないようにしてくれているんだろうなと思う。
 
 よく食べて、程よく歩いた。エビデンスのあるおまじないがあるので、きっと今夜はよく眠れる。
 そう自分に言い聞かせるように、階段を降りた。

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