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3LDKの悪夢。

 睡眠に関しては、この数年はほとんどずっと睡眠薬に頼っている。早く効果が出る分効力が短いものと、ゆっくり効いてくるが長く効いてくれるものを組み合わせて、8時間ほどの睡眠が取れるように調整している。主治医と相談した上である程度自分で分量を調整できるように処方してもらっているので、その日の自分の体調や疲労度その他諸々と相談しながら、毎晩薬を飲んで眠る。

 睡眠薬に限らず薬というものは、血中濃度のピークが効き目のピークで、濃度が下がれば効き目も落ちていく。睡眠薬で言えば、濃度が下がって効力が落ちてきたところでちょうど起床できるのがベストだ。それを念頭において薬の分量を決めているので、大抵明け方はかなり眠りが浅い。そして眠りが浅いと、人は夢を見やすい。

 夢というのは、まあ脳味噌のディスククリーンアップとデフラグのようなもの、だとわたし自身は考えている。夢分析や夢占いに意味がないとまでは言わないけど、まあ、わたしはそこまで深く考えてない。しかし、ほとんどの人間は毎晩実はしっかり夢を見ていて、それを覚えている時と忘れている時があるわけで、いちいち覚えている夢に対しては、何かしら自分の気持ちと結びつくモノがあるのではないかと思うのは、まあ人のサガなのではないかと思う。

 最近、ほぼ毎日見るのは実家にいる時の夢だ。といっても夢に出てくる実家は、今はもうない。

 わたしがいた頃の実家は、父が務める会社の社宅だった。3LDKのマンション。そこに住み始めた時のわたしは5歳で、1歳の妹と両親の4人暮らしだった。その1年後には弟が生まれ、5人暮らしになった。そこからわたしは大学進学する19歳まで(ちゃっかり自宅浪人している。その話もまた書きたい)その家で暮らした。ちなみにわたしが19歳の時は、妹は15歳、弟は13歳である。
 つまり察しの良い方はこの時点でお気付きかと思われるが、わたしには“自分の部屋“というものを、この家を出るまで持ったことはなかった。
 わたしが家を出る時点で、この3LDKがどう使われていたかをまず説明しようと思う。
 玄関に一番近い洋室は、わたし、妹、そして弟の学習机が3つ、壁に向かってみっちり並び、反対側の壁には年季の入った電子ピアノ。その隣のメタルラックには妹や弟の部活の道具(彼らはわたしと正反対で、運動部に所属していたバリバリの体育会系人間なのだ)が押し込められていた。
 その隣の和室は、わたし達姉弟と母の4人が眠る寝室で、毎晩畳一面に布団を敷き詰めて、枕を4つ並べて寝ていた。その部屋には両親の洋服ダンスやクローゼット、わたし達子どもが絶対開けてはいけない引き出し(実印とか、両親の結婚指輪とか、とにかく子どもが勝手に触ってはいけないモノ達)があった。
 そしてリビングに続く、襖で仕切ることができた和室は、わたし達子どもの服の入ったタンスやおもちゃ、母の趣味の本棚、父の趣味のCDの棚があり、父は毎晩ここで眠っていた。弟が生まれる前は父も一緒に先述の寝室で眠っていた記憶がなんとなくあるのだが、いつからか父はこの部屋で眠っていた。どうして?と聞くことはなんとなくできなかった。父のいびきはめちゃくちゃうるさくて、でもそのことを指摘できなかったから。

 つまりこの家で、わたしが“ここはわたしの領地“と言えたのは、洋室の学習机の上とその中身だけ。机の上に本を積み上げて、弟の学習机の間に小さな壁を作った。それがわたしの19歳までの生活だった。

 先述の通り、実家はもうこのマンションからは引っ越して、地理的にはそことたいして離れていない場所に2階建の一戸建てを父が買ったのは、わたしが大学3年生の時だった。新しい家には妹と弟、それぞれの1人部屋があって、彼らも大学進学と共に実家を出ているが、彼らの部屋には参考書や小説、漫画、CD、ぬいぐるみとか、確かに彼らがその部屋で生活した痕跡が今もある。最低限必要なものだけ抱えて引っ越したわたしが残していったものたちは、今どこにあるんだろう。まあもう結構どうでも良くなってるけど、たまにちょっと心配になる。写真たちと一緒にお菓子の缶に詰め込んどいた、友達と授業中に交換した手紙の行方とか。

 前提が長くなってしまったけれど、わたしが見る夢は、いつもこの家の寝室で始まる。

 わたしはいつもその寝室で、一番出入り口の襖に近い所で眠っていた。塾や部活で布団に入るのが遅くなるわたしが、弟妹を、時にはわたしより先に眠っている母を起こさないための工夫だった。母を怒らせてしまったりした日は、襖の向こうの居間から、母が、父に対してわたしが日中いかに至らないことをやらかして母を怒らせたのかを、父に愚痴る声が聞こえてくる。聞いているとどんどん手足が冷たくなっていくので、布団を頭まで被ってやり過ごした。重たい掛け布団で作る暗闇の中は、わたしにとって安寧だった。少なくとも、翌朝起こされてしまうまでは、この中でひとりでいられる。家のどこにいても人がいる環境は、特に10代後半のわたしにとっては、とてもではないが息苦しい環境だった。
 それでも、朝は来る。自分でも目覚ましはセットしているが、それよりも早く襖を勢いよく開けられる。実家にいた頃のわたしは、安寧の空間からしょぼしょぼと這い出て、一日を始めるのだった。

 しかし、夢の中のわたしは、布団から起き上がれないのだ。ああ、今朝も起こされてしまった。早く起きて、着替えて、朝食を食べなければ、また母が不機嫌になる。わかっているのに、頭が割れるように痛くて、布団から一ミリも頭を起こせない。焦れば焦るほど痛みが募って、全身に冷や汗をかく。その間に、隣で寝ていた妹はてきぱきと起き上がり、着替えて、布団を畳んで居間へ行ってしまう。頭が動かせないからわからないけど弟も多分そうしている。でも、わたしはここから動けない。
 弟妹は襖の向こうの居間に行ってしまう。「お姉ちゃんは?」という母の問いかけに「まだ起きてないよ」と答える弟妹の声。苛立ちを隠さない足音が寝室に近づく。襖を開けて、母がそこからわたしを無言で見下ろす。「頭が痛い……」とやっとのことでそう一言伝えると、母は大きなため息をついて、襖を勢いよく閉める。ぱしん、という音が大きく響いて、頭蓋の中でぐらりとする。

 居間では、妹と弟が朝食を食べている気配がする。兄弟がいる人にはわかる感覚だと思うが、子どもの中で1人誰かが何かをやらかすと、残りのメンバー(?)はこれ以上生殺与奪の権を持つ人(この場合は母)の気持ちを害しないために団結する。このことを恨んだことはない。だってこれは大人の力無くしては生きていけない子どもたちの生存戦略だから。そして大人はそれをわかっているのかわかってないのか、そこに加われなかった子どものことを下げながら、自分の気を害さないよう行動をしている子どもたちを持ち上げるのだ。「お姉ちゃん、こんな時間なのに起きれないんだって。困ったね」「みんなたちはちゃんと起きてご飯食べてえらいわね」と。

 殺伐とした食卓から襖1枚隔てて、頭痛マイスター(自称)は夢の中でもしっかり緊張型頭痛をやっていて、ぎりぎりと締め付ける頭の痛みから、逃げるように目を閉じる。そうするとさらに強まる頭痛に意識を刈り取られていく。襖の向こうの張り詰めた空気と、母の苛立った足音を遠くに感じながら。

 で、だいたいここでスマホのアラーム&スマートバンドの振動&最近買ったAmazon Echoがてんでバラバラな音や動きを発して、同時にスマートリモコンで設定したシーリングライトが高輝度で点灯して、わたしは現実に帰ってくるのだ。こんな夢を見た日には、パジャマが冷や汗でじっとり湿っている。多分寝言録音とかやったら、絶対にうなされているんだと思う。聞きたくないのでしないけど。

 母の名誉のために言及しておくが、体調を崩した時の母の対応が毎回こんな感じだったわけではない。まあそれは、母とわたしの関係性がどういう時期だったかにもよるけど、優しく声をかけて熱を測り、冷えピタシートを貼ってもらったこともある。それだってわたしの母の姿だ。

 でも、最近立て続けにこんな夢を何度も見ている最近のわたしは、目が覚めると思わず周囲を見渡して確認してしまうのだ。わたしの寝床の右側は襖じゃなくて白いクロスの壁で、眠っているのはニトリで5年くらい前に買ったすのこベッドの上で、ここはわたしが1人で探した8畳のワンルームで。この部屋は誰にも侵されないわたしの、わたしだけの居場所なんだと。

 それを確認してから、カラカラに乾いた喉に冷たい水を流し込んだところで、この小さな領地の1日がようやく始まるのだ。

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