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大人になれば、なんとかなると思ってた。(映画「マイ・ブロークン・マリコ」を観た)

(大いにネタバレしてます注意)

 大人になれば、こっちのもんだと思ってた。

 大人になって、自分でお金を稼いで、自立してしまえば、呪いを振り切って、楽しく生きていけるんだって信じていた。わたしが、大人がいなくても生きられるようになれば、息がしやすくなるんだって、本気でそう思っていた。
 “子ども”を相手にする仕事をしているわたしは、本当は今だってそう思っていたい。自分の力で生きられるようになれば、自由になれるって。そうしたらずっと生きやすくなるって。

 でも、イカガワマリコは、大人になってから死んでしまった。


 映画の中で、シイちゃんは、マリコの骨を抱えて走る。ふとした瞬間に、マリコとの会話を、仕草をフラッシュバックさせながら、海に向かう。

「せめて、一緒に死んでくれってなんで言ってくれなかったんだ」

 そうシイちゃんが叫んだ時、わたしは泣きながら思った。

 大好きなひとにそんなこと、言えるわけないじゃないか。 
 


 この映画、シイちゃんに感情移入をして観るんだろうなと思っていたけど、わたしはたぶん、マリコのほうに近い人間で(わたしに近しい人はたぶんいろいろと思い至るところがあると思うけど、詳細は省きます。蛇足になるから)、気がつくと、マリコのおもかげに心を乱されるシイちゃんに、どこか罪悪感と、それと同じくらいの安寧を、感じてしまった。

 マリコにシイちゃんがいたことは、幸福であったけど、同時に大きな不幸だった。彼女にとって、この世界は「シイちゃんがいる」ということ以外、茫洋として、いつも誰かの負の感情を向けられて、自分の手で出来ることはなにもなくて。

 マリコは世間一般の目線で見れば、「大人」だ。経済的に自立して、ひとりでマンションに住み、彼氏を作ることができるくらいには社交性がある。だけど、それでもマリコは、死んでしまった。

 わたしの中にある考えだから、一般化はできないし、もしかしたらマリコが思っていたことは違うのかもしれないけど、人は完全に満たされてしまうと死んでしまうんだと、わたしは思っている。

「わたしにはシイちゃんがいる」

 マリコの中に、たぶんこれ以上の幸福はなかったんだと思う。この幸福が最大値で、これを超えるものはなくて、でも、“失う”可能性はある。

 たとえば、シイちゃんに彼氏が出来たら。
 たとえば、シイちゃんに自分以上に優先する存在が出来たら、
 たとえば、シイちゃんが先に死んじゃったら。

 シイちゃんがいる今以上の幸福はないけど、シイちゃんを失うかもしれない未来の可能性は、たぶんいくらでも挙げられる。
 それならば、今ある最大値の幸福だけを抱えて、行ってしまおう……って考えたんじゃないかな、とわたしは思った。本当は一緒にしわしわのおばあちゃんになって、不細工な猫を飼って、一緒に暮らせたらいいけど、そこまでの道のりの上に、勝手にまだ存在してないはずの障害物を見出して、勝手に絶望してしまったんだろう、って。
 書き出してみたら、マリコは本当に勝手な奴だと思う。ひとりよがりに依存して、絶望して。シイちゃんはもしあの世でマリコに会ったら、五発くらいぶっ飛ばしていいと思う。

 わたしには幸か不幸か、“シイちゃん”はいない。先に「大人になればこっちのもんだと思ってた」って書いたけど、大人になっても正直なところ生きてるってよりはぎりぎり生きながらえているって言う方がたぶん正しい。たぶん、これからもずっと。

 この道の果てで、わたしがもし、そうなったとて、遺骨を抱えて連れ出して怒鳴りつけたりしてくれる人はいない。

 それはちょっと寂しいことだけど、この上なく幸せなことだと、最後、シイちゃんが泣いているのを見てそう思った。

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