「僕が彼の人生を豊かにしたのは事実だ」
<ムービー・ジュークボックス4>
ジュークボックスで、
サイモン&ガーファンケルの
”サウンド・オブ・サイレンス”を選んだ。
この曲は、映画「卒業(1967)」の主題歌になって、大ヒットした。
監督マイク・ニコルズは、この楽曲をたいそう気に入っていた。
しかし、後に続く新譜3曲が、サイモンから送られてこない。
ツアーで忙しいと、サイモンは逃げ回っていた。
もともと、映画が終わると映画音楽は使い捨てになると、
サイモンは消極的だった。
しかも、ヴォーカリストのガーファンケルは、なんの助けにもならない。
映画はすでに撮り終わり、ニコルズは、いままでの楽曲をすべてボツにして、サイモンのひらめきを待っていた。
サイモンは苦しまぎれに「映画用ではないけど、”ミセス・ルーズベルト&ジョー・ディマジオ、、”というイントロはあるけど」と電話でニコルズに告げた。
ニコルズは「いま必要なのは、ミセス・ルーズベルトじゃない!」
「ミセス・ロビンソンが、必要なんだ!」と叫んだ。
このやりとりから有名な歌詞が、生まれた。
♫ミセス・ロビンソン、
あんたが思う以上に、
ジーザスは、
あんたを愛している、
ウオ、ウオ、ウオ♫
背徳の女性像が、浮かび上がった歌詞の誕生だった。
そもそも、サイモンとガーファンケルというデュオは、どう誕生したのか。
デビューは、高三の1957年、”トム&ジェリー”というステージネームだった。
サイモンは、作詞作曲ができるので、この先は一人でやろうと思っていた。だから、コンビ名に、こだわらなかった。覚えられやすい人気アニメ・キャラのパクリにした。
芸名と違い、サイモンのスタイルは、メッセージ・ソングライターだった。
でも、歌にむつかしいメッセージは、要らないと周りから言われて、悩んでいた。
そこに、むつかしい詩を歌にしたボブ・ディランが登場、成功した。
サイモンは、メッセージ・ソングに活路を見出した。
1990年に、フォークとロックを融合させたジャンルを確立させたことで、デュオは、音楽殿堂入りしている。
思い返せば、”水曜日の朝3AM”が、デビューアルバムだった
映画がヒットし、"サウンド・オブ・サイレンス”が脚光を浴びた
”ブリッジ・オーバー・トラブルド・ウォーター”は
1970〜1972年、連続の最多販売アルバムになった。
しかし、最後の新譜アルバムになった。
なんと、このアルバム製作中に、サイモン側からガーファンケルへ、
コンビ解消の申し入れがあった。
しかも、サイモン本人ではなく、サイモンの妻からの申し入れだった。
後日、二人の”芸術的解釈の違い”という、解散理由が発表された。
しかし、芸術論であれば、サイモン本人が申し入れただろう。
感情論だから、サイモンの妻が動いたと考えるのが、妥当だ。
事実、1958年のデビュー以来、延々と”感情のもつれ”が続いていた。
NYのユダヤ人社会では、歌唱と演奏でひいでていたということで、
ペアを組まされただけだった。もともと、そして最後まで、赤の他人だった。
輝かしいステージライトの下で、二人は、痛々しい傷を見せていた。
ある授賞式の挨拶で、ガーファンケルは言った「サイモンに感謝している。
僕の人生を歌で豊かにしてくれた」。
サイモンが答えた「彼と僕は、気が合うものは何もなかった。
しかし、僕が彼の人生を豊かにしたのは事実だった」。
とにかく、サイモンは、作曲で困っていても、助けにならない。
ふらっときて歌を歌うだけのガーファンケルが気に入らなかった。
一方、「大麻とタバコを止めてほしい」というサイモンの要望を、
ガーファンケルは軽く無視した。
2001年の音楽殿堂入りの際のサイモンのスピーチは、絶縁状だった「彼との友達関係が終わったことを後悔している。いつの日にか、死ぬ前に、我々はわかり合いたい。でも、急ぐことはない」。
♫友達が困っていたら、手を差し伸べてあげよう♫という
”ブリッジ・オーバー・トラブルド・ウォーター”の歌詞は、
不仲の二人をいやすことはできなかった。
そして今日まで、橋の下を、多くの水が無為に流れていった。
ジュークボックスから”サウンド・オブ・サイレンス”が流れてきた。