AIの時代に私たちははどう生きるか。合理的に生きることのバカらしさ
1991年生まれの私にとって、機械がまるで人間のような振る舞いをするのは「ドラえもん」をはじめとするフィクションの世界のものでした。
大学を卒業した2014年頃からAIという言葉を少しずつ、様々な方面で耳にするようになったものの、私にとって人間のような振る舞いをするAIはフィクションであり、
せいぜい「おすすめを紹介してくれる」「単純作業を自動化できる」程度のものだろうとしか思っていませんでした。
その固定観念は2022年11月、ChatGPTのGPT3.5の登場によって覆されることになります。
気づけばChatGPTで文章作成やPythonのコード生成、SVGの生成など様々な用途で使い倒すようになり、これまでフィクションだった「人間のような振る舞いをするAI」が現実になりつつある(寧ろもうなっている)ことを身にしみて感じています。
様々なメディアで「AIの時代にどう生きるか」ということが議論されている中で、このようなテーマを論ずるのはやや時代遅れだったり、擦られ続けたネタということは自覚しつつ、
自分にとってドンズバな答えがどこにもない、というフラストレーションを解消すべく、このnoteを通じて私の考えを述べさせていただきます。
AIがもたらした「違和感」の正体
炎上したマクドナルドと炎上しなかった伊藤園
2024年8月17日にマクドナルドが公開した「AIを用いたWebCM」が炎上しました。
その概要と炎上した理由は、以下の記事を参照していただければと思います。
記事の一部を引用させていただくと、CMに対する批判は以下の4つに分類できるようです。
逆に炎上しなかった伊藤園や、シャープはAI的な違和感が少なかったため、炎上しなかったとこの記事では分析されています。
つまり、今後AIの精度が向上していくにつれて、炎上の数も減少していくことが示唆されていると私は思います。
また今日において、私たちは「AI」という前提に立って「AI」と触れ合っているため、その違和感に敏感になっていると思っています。
しかし今後AIの普及や、AI技術の成長の中で、この違和感はほぼゼロになることは間違いありません。
AIがもたらした違和感は、まだAIが成長過程であることを示しているにすぎず、近い将来AIが私たちの生活に溶け込み、なにがAIで、なにがAIではないかを判断することが難しくなることは明白といっても過言ではないのではないでしょうか。
AIは人間の仕事を奪うのか
「AIの時代に私たちはどう生きるか」というタイトルを掲げている以上、「AIは人間の仕事を奪うのか」という議論にも言及しなくてはなりません。
多くのメディアで「AIに奪われる仕事・奪われない仕事」と銘打ち、その仕事の特徴やAI社会における生き抜き方の指南がされています。
その特徴を私なりにまとめると、AIによって奪われない仕事の特徴は以下の3つにまとめることができます。
人の心に寄り添う仕事(カウンセラー、精神科医など)
交渉や決断が必要な仕事(営業やコンサルタント)
人の心を揺さぶる仕事(アーティストなど)
いずれの特徴も、キーワードとなっているものは「(現時点で)AIには予測できない人の不安定な心」です。
ここで私見を述べさせていただくと、これらの仕事も全てAIに奪われると思います。
例えばテレビCMは、不安定な人の心を揺さぶるマーケティングの代表的な手法です。
マクドナルドは炎上してしまったものの、炎上しなかった伊藤園やシャープは、AIという前提のせいで別の話題性を生んでしまいましたが、もしその前提がなくなった時、テレビCMの役割を果たすものになるのではないでしょうか。
念の為反論をしておくと、他にもAIに奪われない仕事として「AIを使う・作る側の仕事」などが挙げられていましたが、CodePlanが実用化されたら、たちまちエンジニアの仕事はAIによって奪われていくような気がします。
人は自らAIに仕事を奪われにいっている
では、営業などの仕事はどうでしょうか。
これまでの「営業」といえば、足を使って、顧客と仲良くなって、顧客のためになる提案をおこなって結果を出すようなイメージを持っている人は多いと思います。
その「営業」のイメージが残り続けていれば、おそらく営業という職種は、しばらくAIに奪われない仕事の一つとして挙げられ続けると思います。
しかしながらTHE MODELというフレームワークの登場により、これまでの営業のイメージは崩れ始めています。
THE MODELとは、セールスフォースが活用していた営業活動の効率化・合理化のためのフレームワークです。
THE MODELの概要を端的にまとめると以下のようになります。
営業活動の各プロセスを数値化・可視化する
各プロセスごとに専門チームを設ける
各プロセスの専門チームは数値化された目標の最適化・最大化を目指す
平たくいえば、リードを獲得するチーム、商談を行うチーム、受注後にアップセルを行うチーム等に分かれ、各チーム各KPIの達成を目指して行動するというものです。
商談を行うチームは、商談に特化したスキルを磨いていけば良く、受注後のアップセルやクロスセルを行うチーム(カスタマーサクセス)は、同様にその領域に特化したスキルを磨いていけば良いのです。
この合理的なフレームワークは書籍の出版とともに瞬く間に多くの企業に広まり、完全には取り入れずとも、THE MODELのエッセンスを取り入れている企業は少なくありません。
このTHE MODELの登場によって、これまで人の心に寄り添い、プロダクトの良し悪しではない部分の要素があった「営業」の合理化が始まりました。
その結果、商談でトークスクリプトしか話さない営業、「ミーティング数」を稼ぐための10分程度で終わる打ち合わせ、課題に寄り添わない一方的な提案が増え始めていると私自身感じています。
その全てがTHE MODELのせいではなく、働き方改革や〇〇ハラスメントなどの社会的背景も起因しているとは思いますが、このような営業活動の合理化による弊害は、ある種「自らAIに仕事を奪われにいっている」とも言えるのではないでしょうか。
うつ病は心の病気ではなく、脳の病気
では、カウンセラーや精神科医はどうでしょうか。
人の心に寄り添う仕事であるため、一見非科学的なもののように見えますが、実際は様々な科学的根拠の上に成り立っています。
私のここ数年で最も印象的な言葉の一つに「うつ病は心の病気ではなく、脳の病気」というものがあります。
この分野の専門家ではないため間違っているかもしれませんが、うつ病はストレスなどによって脳が正常に機能しなくなるもので、具体的には幸せホルモンとも呼ばれるセロトニンの量が減少してしまうため、やる気が出なくなったり、気が落ち込んでしまうそうです。
そのためうつ病患者に処方される薬の中には、このセロトニンの量を増やすものもあるそうです。
うつ病=脳の病気というのは、人間の心は科学的に説明できるという一つの例であり、人と人とが行うカウンセリングも、統計学や心理学などの「科学」を用いて説明ができると思います。
つまり、科学で説明できるということは、技術が追いつけばAIもこのような仕事ができると言えると思います。
すでに精神科のオンライン診療や、メタバース上でのカウンセリング、もっと身近な例で言えばオンラインのコーチングなども含まれるでしょう。
より技術が高度化したら、話すときの目線や言葉の抑揚、声の大きさなどから人の感情を統計的に読み取り、導き出した精神的な状態からその人にとって最適な答えを出すAIが登場するかもしれません。
そこで、このnoteを読んでいる皆さんに問いたいのは、そんなAIに自分自身のことを相談したいでしょうか。
おそらく意見は割れるのではないでしょうか。
「AIに相談なんてしたくない!」と思った方は、「AIである」という前提をなくしたらどうでしょうか。
人間とAIの区別がつかなくなった時、企業やサービスが「これはAIである」と謳わなくなった時、私たちは知らぬ間に相談相手がAIだったということも起こり得ます。
AIがもたらした「違和感」は、AIが発展途上の技術であるが故の現象・感情であり、AIの精度向上と、企業やサービスが「これはAIである」を謳わなくなることで、そもそも感じなくなってしまうといえるのではないでしょうか。
AIは合理化の終着地点
ここまでの話は、AIを含めた技術的成長が絶え間なく起こった場合、「最終的にはこうなってもおかしくない」という仮定に過ぎません。
実際私個人の肌感覚では「いやいや、それはないでしょ」という気持ちも入り混じっています。何せシンギュラリティ(技術的特異点)は2045年に起こると言われているため、その計算が正しかった場合でも、あと20年先の話です。
これまでのような極論を考えることも大事ですが、「どう生きるか」という抽象的なテーマに対して具体的で根拠のない極論をぶつけても陰謀論じみた結論になるだけです。
そこで次に、このような事態を100年以上も前から予見していた「プロ倫」でお馴染みのマックス・ウェーバー的観点も踏まえながら、今後の傾向や、より俯瞰的な意見をまとめていきたいと思います。
機械化・AI化に伴う格差の広がり
AI化が進むと、人が行う労働が限定的になってきます。
先ほど紹介したような営業やコンサル、カウンセラーなど、すぐには代替されない知的労働の需要は引き続き増え続けると思います。
逆にそうではない労働は、機械やAIに真っ先に置き換わっていきます。
つまり知的労働ができる人口が増えない限り、需要は高いのに供給量が少ないという状態に陥り、知的労働者の市場価値が高まります。
これはホワイトカラーに限った話ではありません。
AIの話とは逸れますが、たとえば3Dプリンターで造られた家が普及した場合、これまでの建築事業者の仕事は減少していくことが予想されます。
これは「従来の建築方法による日本らしい家に住みたい」という人がゼロになるというわけではなく、そのような家が貴重になるという話です。
話を戻すと、AI化・機械化が進むと人の手で行われる労働の価値は高まる一方で、そうではない代替可能な労働の価値は下がるということです。
至極当たり前なことですが、これはすでに起きていて、その実態=格差を評価する指標は、すでに頭のいい人たちによって開発されています。
それがジニ係数です。
ジニ係数を使った格差の分析の詳細は、以下の記事をご参照ください。
この記事の一部を引用させていただきます。
つまり、本来はすでに格差が危険水域に達しているのですが、政府の再分配のおかげで格差が広がっていない状況なのです。
さらに言えば、このようなAI化や機械化によって起こりうる社会的変化を、人間の作った制度で食い止めている状況だということです。
格差に対して国が奔走していることはジニ係数で説明できますが、AIや技術革新に対して国は何かしらの対抗措置は取っているのでしょうか。
「対抗」とまでは至っていないものの、アメリカではAI開発に関するガイドラインを用意し始めています。
このような規制までを計算してシンギュラリティのXデーが2045年に設定されているかは分かりませんが、「法」は「合理化」に対抗する手段の1つなのかもしれません。
心が空っぽの人が自惚れる世界
マックス・ウェーバーは1900年前後に活動をしていた社会学者で、有名な著書にプロ倫(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)があります。
私は、大学の社会思想史という授業でプロ倫および社会学を学んだ程度なので、もしかしたら専門家からすると間違ったことを述べている可能性があることをご了承ください。
ウェーバーは「合理化」を「予測可能なもの」「操作可能なもの」と捉えました。
言われてみると「確かに」という感じですよね。
そしてウェーバーは社会の合理化が進むと、自分自身の「◯◯をしたい!」という内発的動機から行動することが少なくなり、「△△の場合は、✕✕すればよい」という合理的な外発的動機から行動することが増えていくと指摘しました。
難しい言葉でいえば主意主義から主知主義への変化です。行動の主が、意志から知識に変化する、ということです。
これまで述べてきたAI化は、「合理化」の最も身近で、最も分かりやすい例と言えるのではないでしょうか。
AIは様々なデータを元に結果を計算し、予測し、適切な操作をおこないます。
例えばGoogleの検索エンジンは、AIの技術を用いて特定のユーザーにとって、最も関連性の高いページや広告を上位に表示します。
さらにいえば「検索エンジン」そのものが合理化の象徴と言えるのではないでしょうか。
社会の合理化が進むと、世の中に「再利用可能な合理的な知」が蓄積されていきます。
そのような合理的な知が、これまで内発的動機で行動をしていた人間を囲い、外発的動機でしか行動できなくさせます。
この状態や概念のことをウェーバーは鉄の檻と呼びました。
実際に皆さんも以下のような経験はありませんか?
食べたいものがないから、近くでオススメの飲食店を探す
やり方が分からないからマニュアルを読み込む
同じような課題に直面している人が書いた記事を読む
こんなnoteをここまで読んでいる
これらは全て鉄の檻に囚われた状態で、自分自身の意見・意志・考えを持たず、「合理的な知」を元に行動しているといえます。
このような合理化が進むとどうなるのか、ウェーバーはプロ倫でこのように述べています。
つまり心が空っぽな人が自惚れる世界です。とても悲惨だとは思いませんか?
AIに心を宿せるのか
「AIは心理カウンセラーや精神科医も代替できる」という旨の話をしましたが、それは人間がAIかどうかを見抜けないだけであって、AIに心や精神が宿るか宿らないかは別問題です。
「完璧なAIの完成」が合理化の終着地点であれば、合理化に「心」や「精神」という概念が含まれるのかを考えなくてはなりません。
私が考える「心」や「精神」は、不確実性のある、または不完全な知性です。
「うつ病は脳の病気である」という話の通り、脳科学の研究が進歩すれば進歩するほど、人がどのように行動するのかは予測可能・計算可能になるはずです。
しかしその人間の行動は、完璧なAIには到底理解できない非合理性があります。つまり人間の脳内で行われる様々な感情や意志、考えを元に計算される行動は、完璧なAIに合理性の面で劣るということです。
分かりやすくいえば、映画「マトリックス」において「オラクル」という存在があったように、合理的ではない曖昧さ=人間らしさであるということです。
このことを踏まえると、AIが心を宿すためにはあえて非合理的な曖昧さをAI自身にプログラムする必要があり、完璧なAI = 完璧な合理性だと考えると、AIに心を宿すことはできるが、宿せない(宿さない)と言えるのではないでしょうか。
人間が完璧なAIを目指すのか目指さないのかという議論は、このnoteの趣旨と反している上に、さらに発散的になってしまうため、今回は割愛させていただきます。
「人間の曖昧さを読み取って計算結果を出すこと」と「AI自体に曖昧さをプログラム」をすることも別問題なので注意しましょう。
私たちはどう生きるか
ここまで、AIによって急速に進んだ合理化と、その社会的影響、それを予見していたマックス・ウェーバーの鉄の檻など、様々な角度で現在の状況を説明してきました。
一部私の意見もありましたが、かなり俯瞰的に説明してきたつもりです。
最後は、これまで説明してきた前提を踏まえて、ゴリゴリに私の意見を述べたいと思います。
合理的な仕事は「つまらない」
非常に自己矛盾をはらんだテーマなのですが、私は合理的な仕事はすぐ飽きると思っています。
私は普段企業のマーケティングやDXなどの支援をおこなっており、日常的に「合理的な仕事」をしています。
「合理的な仕事」は最初は楽しいです。でも、次第に飽きてきます。
おそらく「合理的な仕事」をし続けられている人は、合理的な仕事を続けることで得られる新しい経験や知識の習得などに楽しみを感じているのだと思います。
かくいう私も合理的な仕事がしたいのではなく、「人に迷惑をかけたくない」「みんなが納得した形で進めたい」という気持ちが背景にあります。
他にも、まだ会社員だった頃、喫煙所や居酒屋で会社や上司の愚痴を言ってる時のほうが、理性は許さなくても、感情的にはとても楽しかったような記憶があります。
現在経営している会社でも似たようなことがいえます。
今日の資本主義経済において、経営者であれば売上と利益が多ければ多いほど立派であり、権威があり、賞賛されます。
売上や利益を多くするためには、新規顧客の開拓と既存顧客の成長が必要です。新規顧客を開拓するためには、営業活動やマーケティング、そして適切なKGI・KPIの設定とPDCAが必要です。場合によってはアライアンスや、M&Aも検討しても良いかもしれません。
そんな機械的に働いて、楽しいですか?
結局それだと、立場や考え方、責任や視座が違うだけで、抽象度を上げると会社員の時とやってることは変わりません。
それだったら自分がやりたいと思った仕事、不確実性のある感情が疼くようなことに取り組んだ方が、私は楽しいと思いました。
ただ「会社を大きくすることや影響力を大きくすることに楽しさを感じる!」という人がいることも分かります。
私は、そのような考えには部分的に同意できないだけです。別に経営者だからといって、経営者のマジョリティの意見に同意する必要はないと思っています。
人はみな老害であれ
仮に2045年がシンギュラリティ元年だとすると、現在32歳の私は、おおよそ人生の半分が過ぎた頃に完璧なAIに出会うことになります。
逆に2045年以降に生まれた人は、AIネイティブ世代、もしくは合理化しきった世界に生きる「空っぽ」世代かもしれません。
そのような「空っぽ」世代と私たちとの決定的な違いは、非合理的な体験と記憶を有する量だと思います。
人間らしい曖昧さや不完全さを持っているが故の体験や記憶は、「空っぽ」世代からしてみると理解しがたいかもしれません。
ただ、そこにこそ人間としての良さがあるとするならば、徹底的に老害であることが重要なのではないかと思っています。
「老害」という言葉は、合理化に向かっている社会にとってはネガティブな言葉だと思いますが、AIについて色々考えてみると、意外に人間らしくてポジティブな言葉なのではないかと思い始めるようになりました。
ただ若者には受け入れられていないことは事実であるため、老害は老害同士で仲良くやるのが一番だと思います。
そのためには、同世代の交友関係やコミュニティを大切にし、同じ価値観を共有できる環境を維持し続けることが大事なのではないでしょうか。
人間らしく生きる
最後に、私がこのnoteを通じて言いたいことは「人間らしく生きる」ことが大事だということです。
似ている言葉に「自分らしく生きる」というものがありますが、「人間らしく」はより原始的なニュアンスです。
地域の人と交流をする
感情的な意思決定をする
大切な人やパートナーとの時間を増やす
他にも周りに流されない、他人を尊重するなど、「自分らしく生きる」と共通する要素もあります。
しかし、この「人間らしく生きる」は、私が以前書いたnoteにある「やりたくないことをやらない」と矛盾する部分もあります。
例えば「地域の人との交流」は、私の中でやりたいこととは呼べないことです。ただ実際にご近所の方の温かさを感じると、社会人として働くだけでは感じ得ない気持ちが湧き上がります。
こういった自己矛盾もまた、人間らしさであり、合理化すべきことではないと思っています。
最後に、ここまで綺麗事ばかりを述べてきたので、実際問題どう生きるべきか、綺麗事抜きの私の意見をまとめます。
結論、合理と非合理のバランスが大事だと思っています。
例えば会社では合理的に振る舞い、プライベートでは直感に身を任せるなど、バランスの取り方は人それぞれで良いと思います。
とはいえ、社会の合理化はそう簡単には止めることができないので、来たるシンギュラリティに向けて、今のうちに非合理的な体験や記憶を増やしておくことや、そのような体験や記憶を共有できる仲間やパートナー、コミュニティを作ることが必要なのではないかと思っています。
あとがき
話が紆余曲折してしまい上手くまとまっていない気がするのですが、改めて自分の考えをnoteに書きなぐったら気持ちがスッキリしました。
合理化・AI化する社会について批判的な立場で物申していましたが、実際はAI化する社会にワクワクしている自分もいます。
一方で最後に述べたように、失われゆく「人間らしさ」を取り戻すためには、少なくとも自分は周りの人を大切にしたいと思っていますし、この考え方に共感してもらえる人を増やしたいと思っています。
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