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まっしろ前夜

今回登場するお菓子

 五時半を過ぎても帰る支度なんかせず、長瀬は窓の外を眺めていた。スティック状のビスケットを一本手に取る。素朴な甘味に、黒ごまの香ばしさと塩気が心地よく、一つ、また一つと口に運ぶ。現実逃避を味覚にするならこんな味がいいと、ぼんやり思った。

「長瀬。親、来ないのか?」

 きょとんとした顔で担任が教室に入ってきた。二人以外、誰もいない。タバコで停学を食らった楠木が戻ってきたとか、進路希望のプリントの提出日が今日だとか、そんな今朝の賑わいはどこかに消えてしまった。日が落ちた外はびゅうびゅうと風が吹きすさび、白い暗闇が広がっている。

「はい」

 教壇にいる担任から視線をそらすように、長瀬は机の上を見やる。お菓子、読み終わった小説、進路希望のプリント。父親と昨日、文学部に行くかどうかで揉めたのだった。プリントは空欄のままである。

「大丈夫なのか?」

 担任は心配そうに眉をひそめている。長瀬はお菓子をカバンに入れ、コートを着る。担任は教壇から降りて歩み寄る。長瀬は進路のプリントしまおうとして手を止めた。かわりにペンを持ち、第一志望の欄に『どっかの大学の文学部』と殴り書きした。

「大丈夫です」

 そしてそれを担任に押し付けると、本ととカバンを抱えて教室を出た。後ろでため息交じりの苦笑が聞こえたが、長瀬にとってはどうでもいいことだった。

 図書室なら一人になれるだろうという長瀬の期待は見事に外れた。カウンターの奥にある蔵書室の電気がついている。図書委員でも残っているのだろうか。長瀬はカウンターに入り、ノブに手をかけ、ゆっくり引いた。

 扉を開けた瞬間、長瀬はその場で棒立ちになってしまった。切れ長の目が鋭く長瀬を射抜く。学ランを着崩し、ソファに寝転がっているのは楠木だった。

「なに。なんか用か」

 違うクラスだが長瀬は何度か名前を耳にしていた。そして必ずくっつくのは良くない噂である。くつろいだ姿勢でいるものの、声は憮然としている。手に持っている文庫本は『ナイン・ストーリーズ』というタイトルだった。

「ええっと、図書委員だったっけ?」

「いいや」

 楠木は表情一つ変えない。本に視線を戻し、ページを手繰る。くつろいでいる彼は蔵書室のソファに違和感なくフィットしていた。長瀬は、自分は場違いな人間なのではないかという不安と、思わずとんちんかんなことを言ってしまったという恥ずかしさで、身動きが取れなかった。

「俺が読書してるって、ヘンか?」

「えっ?」

 呆気にとられている長瀬に構わず、楠木はページを眺めながら言う。

「俺が読書しているのは変かって、聞いてるんだよ」

 彫刻のように、細く長い指。まどろむような眼(まなこ)。読書をする楠木の所作は美しかった。彼の振る舞いは、この空間の住人としてふさわしいものであった。

「変なんかじゃないよ、全く。ただ、ちょっと僕も本を読みに来ただけさ」

 長瀬はひょいと、持っていた本を表紙が見えるように掲げて見せる。読書をする姿に見とれると同時に、嫉妬心のようなものを抱いていた。楠木は目を細める。

「ライ麦畑でつかまえて、か」

 楠木は読んでいた本を置いて起き上がると、棚に向かった。棚は彼の背丈ほどあり、食器やらカップやらがしまってある。棚の中段にある電気ケトルのスイッチを押し、お湯を沸かし始める。

「コーヒー、ブラックで飲めるか?」

「うん」

 マグカップを一つ取り出し、インスタントコーヒーの粉を慎重に加減しながら入れる。スプーンは無いようだった。カチッと音が鳴ると、マグカップにケトルのお湯を注ぐ。蒸気が立ち昇り、インスタントコーヒーの香りが宙を遊んだ。長瀬はこの一連が美しいと思った。

「座れば?」

「どうも」

 楠木が寝転がっていたところの向かい側に座る。コートは着たままだった。

「食べなよ。コーヒーのお供に。これでよければ」

 カバンからさっきまで食べていたお菓子を出して、真ん中に置く。これが果たしてコーヒーのお供になるのかどうかは長瀬にはわからなかったが、無いよりはましだと思った。取りやすいよう切り口を大きく開け、一本抜き取る。

「進路のプリント、出した?」

「いいや」

 楠木は興味がないといったふうに答え、自分のコーヒーを入れる。そしてマグカップを持ってくると、先ほどの位置に足を組んで座った。長い脚だと、長瀬はビスケットを食べながら思った。

「なあ、どう思う?」

「なにが」

 楠木は一口コーヒーを飲み、長瀬もそれにならうように飲んだ。

「その本に出てくる、アヒルだよ。池が凍ったらどこに行くのかってやつ」

 落ち着き払っていたが、目は不安を宿していた。長瀬は考えてみたが、思いつかず目を伏せる。

「知らないよ」

「そうか」

 楠木はコーヒーを飲み、うつむく。その表情は悲しげで、長瀬は思わず唇を噛んだ。猫背になっているせいか、彼がさっきよりも小さく見えた。

「タバコ、初めて吸った」

 うつむいたまま、ぼそっとつぶやいた。長瀬は体を少し前に傾け、続きを静かに待った。

「頭にもやがかかったみたいで、苦くて、口の中が渇いて。少し息が詰まってさ」

 古い本とかびのにおいが時間を沈殿させる。恍惚と憂いを含んだ表情を、長瀬は見守っていた。

「でも、未来は考えなくてすんだんだな」

「そうなんだ」

 楠木はコーヒーを一口飲む。ビスケットを一本取り、人差し指と中指で挟んで口元に運んだ。

「どう?」

 にやっとして見せると、楠木は呆れたように肩を上下させた。

「馬鹿じゃないの」

 そういうと楠木も一本ビスケットを抜き取り、指で挟んでにやっとした。

「現実逃避の味がする」

 楠木がビスケットをかみ砕いているのを見て、長瀬はくすくす笑い、コーヒーをすする。さっきよりこの組み合わせが気に入っていた。

「外、すごいよ。猛吹雪」

 長瀬は手でマグカップの丸い表面を包み、手のひらを温めた。

「明日、きっと真っ白だよ。この辺り一面」

 窓のないこの部屋では外の様子をうかがうことはできないが、やみそうにない吹雪だった。楠木はどこか遠くを見ながら、つぶやく。

「学校だって、真っ白になってくれればいいのに」

 見えない吹雪を凝視するように、目を細めて続ける。

「外も学校も進路も、何もかも真っ白になればいいのに」

 そういうとソファに寝転がり、文庫本を開いた。聞こえるはずのない風の音が、耳の奥で鳴っている。長瀬は祈るようにマグカップを両手で包みながら、コーヒーを飲んだ。雪が明日を隠してくれればいいと願った。


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