ポトスの刺青

この素敵なイラストは、みんなのフォトギャラリーに投稿されたトキワセイイチさんのものを使わせていただいています。ありがとうございます。

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 そうですね。馬鹿なことをしたなって。なんであんなものに頼ってしまったんだろうと今は思います。でもあの時は本当につらかったんです。肉体的にも精神的にも参っていて、当時はすがるしかなかった。

 やっと仕事を終えることができた。本当はもっと早くにあがるはずだったが、遅番がセールのポップ回収を忘れていたためにこんな遅くまで残らなければならなかったのだ。

「葛西さん、お疲れさまです」

 更衣室で着替えていると後ろから声がした。振り返ると菊石さんが制服姿で立っている。部署は違うが三つ下の後輩で、華奢な体からは想像もつかないくらいエネルギッシュで周りからの評価も高い。本社から一目置かれていると噂もある。

「お疲れさま。菊石さんも今終わったの?」
「はい。セール価格の設定が間違っていたので、直していたんです」
「大変だったね」

 同じようなことをしていたはずなのに疲れが見えなかった。歳が三つ違うだけでこんなに違うものなのか。

「それにしても、菊石さんは疲れ知らずだね。うらやましな。私なんて肩も腰も痛くて」

 てきぱきと着替えを進めている菊石さんにそう言いながら、自分の肩を叩く。整骨院とかに行けばいいのだろうが、休日に出かけるのは億劫だった。

「植物の刺青を入れると、いいって聞きます」

 ぽつり、と菊石さんが呟いた。私は予想もしていなかった言葉に面食らった。

「刺青、かあ」

 昔よりもファッションで入れている人も増えているみたいだが、そんな目的で入れるなんて聞いたことがない。

「私にはちょっと抵抗、あるかな。痛そうだし」
「でも良いんですよ、すごく」

 菊石さんの語気に力が入る。それに自分で気が付いたのか、はっとした顔になった。私はその顔を覗き込む。

「もしかして、入ってるの?」

 菊石さんはおもむろに背を向ける。

「内緒にしてくださいね」

 キャミソールをめくって腰のあたりを露わにする。そこにピンク色のガーベラが咲いていた。白い肌に描かれたそれは本物の花のようで、生命力があった。

「わたしもつい二年くらい前までは葛西さんと同じでした。疲れが取れなくて腰が常に痛くて。そんな時、友達に紹介してもらったんです」

 菊石さんはめくっていたキャミソールを元に戻し、ロッカーのカバンから一枚のカードを取り出す。

「もし興味があれば、ここに電話してみてください」

 名刺大のカードには店の名前と電話番号、あと簡単な住所が書かれていた。

「ありがとう、考えてみるね」

 着替え終わった後、おのおの何事もなかったかのように家路についた。帰ってから着替えもせずにベッドに倒れ込む。倒れたもののそのまま眠ることはできない。体は疲れているのに、意識だけがやたらとはっきりしている。最近はずっとこの調子だった。

 ふと、菊石さんの腰のガーベラを思い出した。ポケットから先ほどのカードを取り出して眺める。

 ——植物の刺青を入れると、いいって聞きます。

 本当だろうか。実在するかどうか、確かめてみたい気もする。

「刺青、かあ」

 入れた方がいいだろうか。まず、電話だけでもしてみようか。いや、菊石さんに詳しく聞いてみてからの方がいいだろうか。そんな気を起こしてしまうくらい、限界が来ていた。


 ビルの一室にあるタトゥースタジオは白を基調とした空間で、壁には刺青のデザインだろうか、草花の絵が飾られている。絵だけではなく、本物の観葉植物も置いてあり、花屋と勘違いしてしまいそうだった。

「変わっているでしょう。他の彫り師さんのスタジオは、もっとワイルドなものが多いんですけど」

 肌の白い青年が微笑む。爽やかな印象はあるが全身に入れられた植物の刺青が異様さを放っていた。白いTシャツから伸びる腕には葉を付けたツタが絡まり、首の右側には花が咲いている。

「初めてきたので、他のところの雰囲気はちょっと……」
「そうでしたか。そんなに緊張しないで、こちらへどうぞ」
 施術室に案内され、丸椅子に座って向かい合う。

「何の植物を入れるか、決まっていますか」
「えっ? ええっと」

 入れると決めてここに来たのに何も考えていなかった。我ながら間抜けである。

「どこに入れますか」
「そう、ですね……」

 青年の黒目がちな瞳が覗き込む。

「何も、決めてないんですか?」
「すみません」

 青年は顎に手をあてて考えている。だんだん恥ずかしくなってきた。

「うーん。じゃあ、具合の悪いところはどこですか」
「首から肩にかけて……。あ、あと、腰も」

 本当は体中痛むが、だからと言って全身に入れるのは気が引ける。

「なるほど。広範囲に入れるのであれば、ポトスなんかいかがでしょう。肩だと痛みは少ないですよ」
「はい、それでお願いします」

 デザインも決まり、青年は道具の準備を始めた。その間に指示通り上を脱いで診察台にうつ伏せになる。

「では、始めますね」

 切れ味の悪いカッターのようなものでガリガリと削られて、拷問されている気分だった。肌に形が刻まれるたび、さっきまでの私が剥ぎ取られる。戻れないのだという意識はあったが、今のままが怖かった。戻る、ということをあきらめていた。

「お疲れさまでした。終わりましたよ」

 姿見に立って、施術した左肩を見る。そこにはポトスがあった。丸くつややかな緑が蛇の頭を思わせた。蛇は姿見を通してこちらを見ている。

「かゆくなったりすると思いますが、触らないように。あと、水はこまめに飲んでくださいね」

 ワセリンを塗り、上にガーゼを当てながら青年は言った。帰り際に石鹸を付けずにぬるま湯で流すように言われ、その通りにした。

 出勤して更衣室に入ると、着替えをしている菊石さんを見かけた。今日は早番なのか、もう退勤するようだ。あいさつを交わし、刺青の感想を言う。

「言われた通り、ポトスを肩に入れてみたらずいぶん良くなったよ。疲れにくくなったし、肩も腰も痛みが引いて。本当にありがとう」

 シフトがかみ合わなかったらしく、会うのは一カ月ぶりだった。ポトスも腰まで伸びている。

「ええ、よかったです」
「それのおかげで集中力が上がったのか、筆記試験に受かって、面接を突破すれば昇格。ほんと、いいこと尽くしだよ」
「そうですか、おめでとうございます」

 彼女は上の空、と言った感じだった。顔色もよくないようだ。

「どうしたの? 元気がないみたいだけど……」
「最近、なんか変なんです。今回の筆記試験も全然集中できなかったし、体も疲れやすくって」

 ぼそぼそと呟く姿は前の自信に満ちていた彼女とは別人だった。血の気がなく、目元にはうっすらと隈がある。

「スマホや鏡でガーベラを見ようとしても、上手くいかなくて。あの、葛西さん。腰のガーベラ、見てもらっていいですか?」

 菊石さんはキャミソールをめくって腰のガーベラを見せた。私は息を飲んだ。腰のガーベラは色彩を失い、うなだれている。

「私のガーベラ、どうなっていますか? 枯れてなんかないですよね?」
「大丈夫、ちょっと元気がないみたいだけど。ほら、紹介してくれたあの彫り師さんに相談してみたら? すぐよくなるよ、きっと」

 なんとか明るい声で言ってみるが、彼女は首を横に振る。それからスマホを取り出して操作し、こちらに見せた。画面にはネットニュースが表示されている。

『タトゥースタジオのオーナー変死 過労が原因か』

 8月29日、○○市×区にあるタトゥースタジオで男性が倒れているのが発見された。身元はオーナーの……。

 青年は病院に搬送されたが死亡。原因は調査中。記事の内容はざっとこんな感じだった。

「これって、私たちの刺青の?」

 菊石さんは黙ったまま頷く。動揺してしまったが、まずは彼女を励まさなければならないと思った。

「亡くなったのは残念だったけど、他の彫り師の人に相談してみるのはどうかな?」

 彼女は再び力なく頷く。もうこれ以上かけられる言葉が見つからない。

「ごめんね、そろそろ行かなきゃ」

 逃げるように更衣室を出て、事務室に向かう。廊下を歩いていると、パートの土居さんに声をかけられた。

「葛西さん、聞いた?」
「おはようございます。何かありましたか?」
「宮田課長、異動だって」

 そういえば異動時期である。課長職以上は私たちよりも異動が早い。

「そうなんですか?」
「せいせいするわ。嫌味ばっかり言って」

 私の上司にあたる宮田課長はパートさんの間で評判が悪かった。私も嫌っていた方だったので内心よかったと思っている。

「まあ、こだわり強い人でしたよね。あ、事務室行ってきます」

 顔に出さず当たり障りのないことを言い、土居さんと別れる。先ほどの枯れたガーベラが脳裏をよぎり、更衣室の方を見た。が、すぐに事務室に入った。

 人事については残留が決まり、また一カ月が過ぎた。ポトスは成長を続け、首のあたりまで伸びている。生活に支障があるわけではないが、息が詰まるような、締め付けられるような違和感があった。秋も深まってきたこともあり、薄手のタートルネックを服の下に着て何とか見えないようにしている。
 いつものように制服に着替えていると、土居さんがやって来た。もう退勤時間らしい。

「お疲れさまです」
「お疲れさま。葛西さん、大変よ」
「どうかしましたか」

 深刻そうな顔を近づけてきたので、私も耳を近づけた。土居さんは声を潜めて言う。

「菊石さん、休職するって」
「えっ」

 言葉を失った。あの日から彼女に会っていない。

「ここ最近元気なかったもの。売り場の人に聞いてみたら頻繁に体調崩して早退してたんだって」

 言われてみれば確かに見かけなかったなと思う。そんなことになっているとは知らなかった。

「そう、ですか」
「あ、バスの時間来ちゃう。またね」

 そう言うと土居さんは早足で自分のロッカーに向かった。いずれポトスが枯れれば私もそうなるのだろうか。そんな一抹の不安がちらついたが、すぐに振り払って着替えを続けた。

 更衣室を出て廊下、事務室に入ると、今度は店長に呼ばれた。

「葛西さん、ちょっと」
「はい、何でしょう」

 店長について行くと応接室に通された。ソファに座るよう促され、その通りにする。クレームか何かだろうか。身構えていると店長が紙を差し出し、顔を緩めた。

「おめでとう。昇格だ」
「本当ですか?」
「ああ、頑張ったね」

 言われるものの、昇格の喜びよりもクレームじゃなくてよかったという安堵の方が大きかった。店長にお礼を言い、応接室を出る。明日は休日。奮発して何か自分に贈ろうか。そんなことを考えながら売り場に向かった。


 自分へのささやかなご褒美に、ゲイシャというコーヒー豆を購入した。いつもは勇気が出ずに素通りするだけのコーヒーショップに入り、名前に惹かれて買った。淹れた瞬間から普段飲んでいるスーパーの豆とは全然違うことがわかった。口に含むと華やかな香りが広がり、心地よい苦みが舌を撫でる。こんなコーヒーは飲んだことがなかった。なかったはずなのに、なぜか感動しない。

 振り返ってみれば、頑張った形跡がなかった。筆記試験の勉強は何故か頭にすらすらと入った。試験当日まで忘れることなく、終わった後にすとんと忘れた。店のアンケート用紙でお褒めの言葉を書かれることが多くなったが、それは口が勝手に動くからだ。 苦しみも、悩みもない。ただ何かに従って淡々と日常をこなしている。

 嫌な感覚が走り、上を脱いで洗面台の鏡に自分の背中を映した。初めて入れたあの時よりもツタは複雑に伸び、葉を茂らせている。そんな中でも左肩の葉は他のものよりも異様な存在感を放っていた。顔も目もないはずなのに、獲物を狙う蛇のようにじっとこちらを見つめている。左肩の葉には意志が宿っていた。

 その日からだ。私がポトスと決別を決めたのは。


 えっ、刺青を取って一番よかったことですか? そうですね、うーん。強いて言うなら、やっと絶望に向かって進んでいけるようになった、と言うことですかね。

 私がポトスの刺青と決別をしたのは、決していい理由ではありません。楽をしたいだとか、苦しみたくないという思いは今でもあります。体もポトスを入れていた時よりも疲れやすくなっていますしね。でも、それでも決別したのは、生きる痛みよりも自分が誰かに奪われる方が怖かったから。どんどん自分が自分じゃなくなって、何かに操られて生きていく方が恐ろしかった。ほんとに、それだけなんです。

 思い出すなあ。手術を受けた十一月。首筋のガーゼにそっと触れたときの痛みと、冬が近づいてくるにおい。あのとき、やっと現実に帰って来れたんです。

お金が入っていないうちに前言撤回!! ごめん!! 考え中!!