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雨降る夜はラベンダーが恋

 吉川綾香が営むバー“アンブレラ”に佐々木和也が訪れたのは、ひょんなことからだった。

 転職活動をして内定をもらった会社から配属先を言い渡された。海を越えた、雪の降らない街。二六年間ずっと地元で過ごしてきた和也にとって、縁もゆかりもない土地に住むということは、想像が出来ないことだった。にぎやかさを失いつつある駅前を通り過ぎ、現実から逃げるように入った飲み屋街の端っこの居酒屋で、初恋の人に再開したのだった

「和也君と会うの、久しぶりだね」

「成人式の時にはあってないから、確か八年ぶりか?」

「あの時は忙しかったから……」

 カウンター席に隣り合って座り、彼女と徳利一つを分け合った。結った黒髪と薄い化粧にさすほのかな赤。細い喉。猪口に付けた、ふっくらとした唇。八年の歳月はクラスの目立たない女の子から、落ち着いた女性へと変えるのに十分だった。

「あたしね、バーテンダーになったんだよ」

 居酒屋でそんな話がきっかけになって、名刺を渡され、記してあった場所がここだった。

「九月の雨は、ラベンダーの匂いを濃くするね」

 バーボンを注ぎながら綾香は言う。確かに、と和也は思った。そう言われて初めて、この街の匂いに気が付いた。音楽が止んだ店内に、雨音が響く。

 やわらかな明かりを受けて黄金色をまとうバーボン。カラカラと氷がグラスの内側を回る音。緊張がほぐれていくに連れ、和也の心の脆さが浮き彫りになっていった。

「俺さ、転職するんだ」

 綾香は目を丸くしつつも、二つ目のグラスにバーボンを注ぎ、ステアする。その目付きが、妙に艶っぽい。

「あら、そうなの。市内?」

「いいや、道外。十月に転勤する」

 カウンターの下から新しい炭酸水を取り出し、栓を開ける。よどみのない動作。店内にAutumn leavesが流れだした。

「せっかく再開したのに、残念」

 ソーダの粒一つこぼさぬよう、バースプーンにあてながら注ぐ。グラスの底で眠っているバーボンをゆり起こし、レモンピールを円を描くように振りかける。その工程一つ一つが和也にとってカクテルを作る以上に、厳かな儀式を執り行っているように見えた。

「あんまり見ないでよ。私の手、女らしくないから」

「バーテンダーらしい手じゃないか」

 綾香の手は女性にしては大きかったが、むしろそれは技術を持った職人らしい、いい手だった。何も実績を残していない和也には、それがうらやましかった。

「やっぱり、女らしくないのね」

「いや、違うって」

 そう言って右手をさする彼女に和也は焦り、身を乗り出す。綾香は無邪気に笑い、少し舌を出してバーボンソーダを置く。

「冗談」

 その笑顔を見た瞬間、高校時代の出来事がフラッシュバックした。隣の席に座っていた彼女が教科書を忘れたと言って、一度だけ向けられた笑顔。大人しい彼女が初めてのぞかせた子どもみたいな表情に、和也は心を奪われてしまったのだった。

「なんだよ」

 どぎまぎしてしまったのを隠すように、酒をあおった。爽やかで冷たくて、舌の上でピリッとはじけるバーボンソーダは、諦めた過去にそっと触れる。

 成人式のあと、酒の席で両想いだったと知った。吉川綾香は佐々木和也が好きだったと。聞いて後悔はしたが、高校の時の自分を恨み切れなかった。自分の今までを表しているようだったのだ。抱いた想いを言葉にする代わりに、無難な日々を作るための言い訳を探している。出来ない理由を重ねていくうちに、起伏のない生活を選ぶようになっていた。今回の転職も、会社が吸収されて待遇が変わるからだった。決して前向きな転職ではない。

「転職。どんな仕事をするの?」

「業種は変わらないよ。営業」

「そう。でもうらやましいな」

「なんで?」

 綾香は自分の分のバーボンソーダを口に付ける。

「ずっとこの街で育ったから、違う場所に住んでみたいなって、時々思うよ」

 意外だった。引っ込み思案だった彼女が、外の街で暮らしてみたいと言うことが。

「そっか」

 和也にとっては不安だった。見知らぬ土地で暮らすことが、そこで生活することが考えられなかった。でも彼女と二人でいるところは、少しだけ思い浮かべることが出来た。もしも彼女と二人で暮らせたなら、見知らぬ土地もいいかもしれない。 バーボンソーダを飲む。さっきより口当たりが優しい。今こそ初恋を成就させる時なのかもしれない。酔いがくすぶった心をそそのかす。遠い日の思い出が、熱を帯びる。

「あのさ。俺とその、一緒に……」

「私ね、結婚するんだ。来年の春に」

 あっけにとられてしまった。それから和也はとっさに左手を見た。綾香もそれに気づいたらしく、左手を出して見せる。指輪はつけていない。

「指輪をしていないのは、食べ物を扱うからよしておこうかなって」

「……じゃあ、この店は」

 思ってもいなかったことに驚きを隠せず、やっと言葉を出した。

「もちろん続けるよ」

 綾香はあっさり答え、続ける。

「だって必要なの。妻とか主婦とか、そんな肩書きを投げ捨てられる場所が」

 初恋の人はしたたかになっていた。目立たない女の子が落ち着いた女性になったと思っていたが、実際は違っていたのだ。先を見据えて、未知の可能性に向き合っている。そんな彼女を見ていると、弱気な自分が恥ずかしくなってきた。

 グラスの中身を一息に飲み干し、コースターの上に置く。

「ごめん。俺、そろそろ行くよ」

 音楽は止まっていた。雨音は聞こえない。

「そっか。ごめん、その、隠すつもりとかなくて」

「いいや、そんなこと。なんか俺、ちゃんとしなきゃな」

 財布を出そうとすると、吉川はお代はいい首を横に振った。それでも譲らず払ったのは、彼女への敬意を、プロにお金を払うということでしか表現できなかったからだ。

「気を付けてね」

「お互いに。カクテル、おいしかったよ」

 そう言って和也はドアノブに手をかけ、回したところで止めた。振り返り、吉川を真っ直ぐ見る。

「俺は吉川の手が好きだし、うらやましいよ」

「……冗談はよしてよ」

 彼女はバーボンソーダをぐいっと呷り、舌を出して笑った。和也はもう一度ドアノブに手をかけ、店を出た。

 濡れた夜風が心地よかった。歩道の花壇に植わっている、ラベンダーの香りをまといながら吹いている。

 向こうに行ってもこの街の匂いを思い出すだろう。雪の降らない街で、今日みたいに風に吹かれながら。

お金が入っていないうちに前言撤回!! ごめん!! 考え中!!